ひとつあがりのカフェテラス
古代日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。
28.「年の神ダンゴ祭」(大分県九重町 田野 年の神)①
旧暦9月16日、九重町飯田高原の一画で、
毎年、「年の神ダンゴ祭」が行われる。
昨年は10月24日が祭の当日だった。
その日の朝、
大分自動車道 湯布院インターから「やまなみハイウェイ」を阿蘇一宮に向けて車を走らせた。
淡々としたカーブがしばらく続いた後、朝日台が遠くに見えたころ、景色が一変した。
くじゅう連山が織りなす雄大なパノラマが車体ごと包み込んでくれるような感触が心地良い。
高原の季節は早足だ。
ほんの少し前、この道沿いに溢れていた夏の光が
今はさわやかな秋の風にどこかへおしやられ、
さわさわとゆれるススキの穂先が朝日に照らされ、草原のところどころを黄金色に染め上げている。
朝日台の展望台を過ぎた辺りで横断道路を降りる。
千町無田の縁に沿って車をしばらく走らせ、途中、右側に鋭く切れ込んだ脇道を降りていくと、こんもりとした小高い丘にたどり着いた。
すぐそばには「朝日長者」伝説に登場する「音無川」が静かに流れている。
伝説では、この川は朝日長者の屋敷近くを流れていたが、長者から「川の音がうるさい」と怒鳴られて以来、水流は激しいが瀬音は低くなったといわれている。長者の威光を恐れて、川さえも音をひそめたそうだが、今は、河川工事のため川筋は変わってしまっている。
祭は、というか、祭の準備はすでに始まっていた。
十人足らずの男衆が刈り取って間もない茅を竹の支柱に手際よく編み込みながら三方の壁をこしらえていた。
神殿を今朝方まで社を覆っていた古い茅はすでに取り払われている。
「九重・飯田高原百話集」(小野喜美夫 著)によれば、飯田高原一帯には縄文から弥生にかけての遺跡が散在していて、姫島産の黒曜石を多用した縄文・弥生の複合遺跡なども確認されているようだ。また、この年の神の地では、土器とともに鉄剣2本が出土している。
「九重・飯田高原百話集」から、
【年の神祭祀伝承】
中世の頃近江出身の「朝日長者」なる組織的開拓者があり、先住の村人を組入れて一時期繁栄したらしく、遠来の朝日長者の神を「白鳥神社」とし、九月十七・十八日に祭り、地元の神を一日早く祭らせた。
それで今でも年の神は旧暦九月十六日が祭り日で、後に住民が北方に移住後も、祭り日には年の神に参集して祭る。
朝日長者組の定着に奉仕した功労により、長者の本姓「浅井」の苗字を許され、甲斐姓ながら重要な記録には「浅井」姓を用いており、祀り方も新萱で祭殿を毎年葺き替え、祭壇や供物皿も萱で作り、供物も米でなくダンゴであり、古代よりの仕来りを今に伝え、町指定民族文化財である。
【年の神まつり】
千町無田先住の人々(による祭り)と考えられ、社叢の丘に茅葺の小社を祀る。
毎年新カヤで神殿を葺き替え、数個の石を御神体とし、カヤを折り曲げた皿九個に持参のダンゴを供え、家族と神前で直会(なおらい)をする。
祭日は年一回旧暦九月十六日。氏子は北方の甲斐氏一統十数戸。米のない時代からで一名ダンゴ祭りといい、司祭はかっては世襲であった。
年の神については、「朝日長者」の屋敷神などとした資料が散見されるが、この神は、どうやらもっと古くからこの地に祀られていたようだ。
九重の大自然を愛した作家 藤井綏子氏は、朝日長者について書かれた、古くから伝わる文書を調査し、年の神祭について、「九州ノート―神々・大王・長者 」に、次のように記している。
そこで、年の神のことだが、たとえば次のように書かれている。
《(朝日長者の)御所近辺に年神あり、朝日長者下り給へる前より、地主の御神にて……》(富田家本)
或いは
《年の神は、朝日長者未だ氏神白鳥大明神を此の土地へ勧請なかりし以前、田野村地主の神
なれば……》(武石家本)
いずれも、朝日長者がこの高原に栄えだす前、そこには年の神が地主として威を張っていた、と思わせる記述である。
その年の神とは
《神の御本体は、天照大神の兄素戔嗚尊(スサノヲノミコト)、出雲国にて八岐(ヤマタ)の蛇(オロチ)を平らげ稲田姫を妻として産給ふ御子八人、稲田姫の尊は毎年あき方に立給ふ年徳大明神の事なり。
御子八人の内大才神、年の神の事なり。此の大才神は、木を伐ることを惜み給ふばかり、終生を守護し給いて、五穀の類、百姓の作る雑穀野菜類、一切残らず実穣成就と御守りの神なり。故に百姓の祀る神なり。》(富田家本)
と書かれている。
(中略)
さらに記事は続く。
《人皇三十代欽明十五年甲戌頃、田野村長(オサ)の百姓、峯の尾辻に、年の神と祭り奉り、崇敬す。
その頃よりして御神の調□などということ田野村に始まるなり。
柱を土にさし、萱を葺き、石を大才神年の神と祭り、田野村一社の産神として、毎年、その年の蕎麦(そば)、稗(ひえ)、黍(きび)、稲の初穂をもって団子をこしらへ、家々より「つと」に包み、持参して参詣し 神前におのおの持ち来たる団子を奉り祭主より披露して おのおの喰いて退散す。》(富田家本)
つまり、今行われているような祭は、すでにそっくりそのまま早く行われていたことになる。どれほど早くかというと、人皇三十代欽明十五年ということであれば、紀元五四五年からということになる。とても縄文時代からではなく、弥生時代も過ぎて古墳時代に入ってからということになる。
また、その祭は、実はのちに来た朝日長者が氏神として祀ったという白鳥神社の祭りより一日早く、行われることになっている。旧暦の九月十六日とは、そのような日である。一日先にする、その理由は皆が納得していた。もとの地主の神であるゆえに
《白鳥神宮へ参詣せん先に、其の年の五穀の初穂を以て団子にこしらえ、供物として壱番に、当社へは仕(つかまつ)る》(武石家本)
そのことが平和裡に行われたところをみると、あとから来た朝日長者は十分礼儀正しい、心やわらかな人だったことになる。
(中略)
大才神は、大年神としてその系譜が『古事記』や『上記(ウエツフミ)』にのっている(『日本書紀』には大年神の名さえ見当たらないが)。かなり詳しくのっているので、それをあたってみよう。
まず『古事記』だが、須佐之男(スサノヲ)は富田家本にあるように天照(アマテラス)の兄ではない、弟である。そして出雲の櫛名田比売(くしなだひめ)を妻としたが、大年神はその間の子ではない。
大山津見(オオヤマヅミ)の娘、神大市比売(カムオオイチヒメ)をもスサノヲは妻にしており、その間にできたのが大年神である。宇迦之御魂(ウカノミタマ)という弟が居た。
『上記』でも、スサノヲはやはりアマテラスの弟になっている。スサノヲは、国照大神として日向の霧島に天降ったのち、結局出雲に落ちついてクシイナダヒメ尊を娶ったが「これより先に」オオヤマヅミノ尊の御娘、オオイチヒメノ尊を妻にしていて、その間に生まれたのがアマツミホークニツミホーサキテルーオオトシムスビノ尊、即ちオオトシノ神だという。大体『古事記』と同じことを書いていることになる。
ダンゴを供えるためのカヤを折り曲げて作られた九つ皿と石の御神体
神事を待つ新築された神殿

白鳥神社宮司による神事
(最近まで、司祭は氏子(世襲)が務めていたという)

神事の後の直会(なおらい)

大年神は、百嶋神社考古学では「多氏」神沼河耳(かんぬなかわみみ=贈・綏靖)とスサノヲの姉・神俣姫との間に生まれ、別名というか、多くの呼称を持っている。
主なものをあげると、天忍穂耳、支那ツ彦、海幸彦、春日大神、草部吉見などである。
ブログNo.9「大年社(宇佐市安心院町)」でも紹介したが、この神は宇佐市安心院町に鎮座する大年社にも祀られており、おそらく一時期、安心院に住んでいたことがあるのではないかと考えている。
さらに、百嶋神社考古学において大年神は、安心院の地で母・アカル姫とともに暮らしていた市杵島姫を娶り、佐田神社に鎮座する佐田大神(=大山咋)をもうけたとされている(ブログNo.8「宇佐市安心院町の佐田神社③」)。
ともあれ、萱で作られたばかりの青々とした神殿を目の当たりにして、すぐに閃くものがあった。
阿蘇郡高森町草部に鎮座する草部吉見神社である。
「草部」は通常「くさかべ」と読むが、百嶋氏は「かやべ」と読むのが正解だと話されている。
ウィキペディアなどでは、草部吉見神社の主祭神は神武天皇の第一皇子である日子八井耳命(=国龍神)としている。
日子八井耳命は、神武天皇東征の時、高千穂より五ヶ瀬川に沿ってこの地に来て、池の大蛇を退治し、池を埋めて宮居を定められた。この時、館は草を束ねて壁としたことにより、この地方を「草部」と呼ぶようになったという。
この「年の神」の神殿も萱で編まれ、まさに草部、そのものである。
やはり、百嶋系図に記されているように、草部吉見(=日子八井耳)=大年なのだろうか?
大年、草部吉見、飯田高原の年の神祭と氏子の甲斐氏一統、そして謎の多い氏族である多氏…。
これらの関連性について、もう少し考えてみようと思う。
TB: -- CM: 0
23
27.アカル姫と比売語曽(ひめこそ)社(大分県姫島村)
【比売語曽社について日本歴史地名体系から】
両瀬(ももせ)の明神様とよばれ、「姫島史」には「鉄漿村字両瀬の海岸にあり」と記される。祭神は比売許曾神で、同神は朝鮮南部の王子都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラシト)の求めた女、新羅王の子・天之日矛(アメノヒボコ)の妻、新羅王・波沙寝錦(ハサムキム)の妃、大己貴(オオナムチ)命の女・下照姫命、辛国気長大姫大目命などの諸説がある。
(中略)
神体は白石とも木像とも土偶ともいうが、婦人像と伝える。神殿背後の岸壁に元宮とよばれる洞窟がある。境内に含鉄炭酸水の拍子水が湧き赤水明神の別称も生じた。
百嶋系図では、天之日矛(アメノヒボコ)はスサノヲ(素戔男尊)のことであり、さらに新羅の第9代王・昔(ソク)氏 伐休尼師今(ばっきゅう にしきん)の太子「骨正」のことだとされています。
この『スサノヲ=アメノヒボコ=骨正』という解を導き出すためには、いろいろと難しい方程式を解いていく必要があるようですが、百嶋氏の資料の中に伐休尼師今について書かれているものがありました。
「新羅第8代、阿達羅尼師今(あだつら にしきん)のAD154年時、延烏朗(よのらん)は49歳であったと思います。
延烏朗はその後、倭国に呼び返されて、イザナギの名前で国生みの大業を成しとげられました。
後々、韓土で先代が他界された折は、皆に推されて第9代の新羅王、伐休尼師今とおなりになりました。それはAD184年、彼79歳の折のことでした。
イザナギの御祖父(新羅第4代)、脱解尼師今(だっかい にしきん)は元はタバナ国の王子でした。半島列島の多くの研究家は、熊本の「玉名」がそのタバナ国ではないかと考えています。
(出典:ウイキペディア(一部加工))
13世紀末に高麗の高僧一然によって書かれた『三国遺事(さんごくいじ)』によると、阿達羅王四年(西暦157年)、新羅の東海岸で延烏朗(よのらん=伐休尼師今)が海藻を採っていると大きな岩が現れ、延烏朗を日本まで運んでいってしまったと記されています。そして、延烏朗を捜しに海岸にやってきた妻の細烏女(せおにょ)も同じように大きな岩に乗って日本にたどり着いたということです。後に夫婦は日本の国王・王妃となったと伝えられています。大きな岩とはおそらく頑丈な船のことだと思うのですが、それにしても実に興味深い説話ですね。
百嶋氏の講演記録からです(「肥後翁のblog」から転載)。
次に、アレキサンダーに追われて逃げてきたイスラエル人及びユダヤ人の集団です。
その頃になると、威張りすぎていたイスラエルのほうは先に落ちぶれていまして、それに仕えていたユダヤ人のほうが勢力があったので、その頃はイスラエル・ユダヤ人ではなく、ユダヤ・イスラエル人に逆転しておりました。従って、アレキサンダーに追われた時の名前はユダヤ・イスラエルでした。別の名前はヘブライですけれども、その頃はもうあまり、はやりませんでした。
とにかく、アレキサンダーに追われて、ペルシャの王様たちと一緒に中国へ逃げ込みました。そして、中国においても、どうもうまく現地の人と溶け込めない人たちは、逃げて逃げてちいぱっぱ、朝鮮半島を経由していっそのこと、日本という天国があるので日本まで逃げようかとなりました。また、古い人たちは海南島経由で日本に入ります。
アレキサンダーに追われた正統派の渡ってきたルートは朝鮮半島経由です。
そして、イザナギという人物が登場します。現地では「ユーラン」といわれる人物が、場所はですね、釜山の上のほうを地図でご覧になりますと、「コハン」というところ、韓国No1の製鉄所があるところです。
ここに「ユーラン」を大きな磐(船)が日本へ連れ去ったという神話、コハン神話が残っています。これが日本で言うイザナギのミコトだと私は思っています。なお、イザナギのミコトはもとは日本人だったのです。あの人の何代か前は、日本人であって、日本時代はどこに住んでいたかというと熊本玉名がもっとも有力です。これは朝鮮の学者もそのイザナギ・スサノヲの親子の先祖が新羅の国に定住されるまでにいたタバナ国とは熊本の玉名ではないかと、どうもその線が強いと考えているようです。これがコハン神話です。
このコハンに相当する新羅の国に、日本のオオヒルメムチ(アマテラスオオミカミ)が後々に手紙を出して、何とか日本を取り仕切ってくれないか、手伝いしてくれないかという依頼状を送られました。これが新羅本紀にはっきりと書いてあります。
今、曽根台地にアマテラスたちをお守り申し上げて、後々九州王朝親衛隊の指揮官となった金山彦のところまでお話しました。それが九州王朝前夜の一部分です。
そんなことなどを思い返しながら、『大分神代史研究会』のメンバーとともに姫島の比売語曽社に伊美港からフェリーで向かったのは、昨年の夏のことでした。
姫島港には約20分ほどで到着です。
夏シーズンを迎えて人の行き来も多く、穏やかに活気づいている港。
港では比売語曽社の江原宮司が忙しい中、出迎えてくれていました。江原宮司にはその後、島内を案内していただいたのですが、天気にも恵まれ、空と海の青いキャンバスに抱かれた美しい島の豊かな魅力をしっかり感じることができました。
火山が生み出した神秘の島「姫島」
姫島港
向こう岸には国東の山々
比売語曽社は、姫島の七不思議の1つ、「拍子水」の傍らに鎮座していて、「赤水名神」と呼ばれています。もちろん、この「赤」はアカル姫の「アカ」と関連があるのでしょう。
また、比売語曽社の本殿裏には、海蝕洞のような岩の裂け目があり、そこには奥宮が鎮座しています。その奥宮の後方には古びた石が置かれていて、目を凝らすと、お姫様の姿のようにも見えます。それは実に神秘的な洞であり、神々しくもありました。
鳥居と拝殿
拝殿内
本殿
本殿屋根に飾られている神紋「笹りんどう」
本殿裏の奥宮
奥宮の後方、洞の奥深くの石祠
境内のハート石(見つけると何か良いことがあるかも…)
江原宮司には、比売語曽社の後、宮司の本務社である大帯(おおたらし)八幡社にも案内していただきました。島民の産土の神として篤い信仰を受けている古社で、姫島の中央に鎮座していました。
さらにまた今回、トレッキング参加者に、国東の神社179社が網羅されている「ふるさとの氏神さま~東国東支部~(大分県神社庁東国東支部神職会:平成28年3月発行)」を進呈していただき、一同大変、恐縮した次第です。
アカル姫はこの後、国東半島の奈多宮に遷られているようですが、そのことについてはまた、後日といたしましょう。
TB: -- CM: 0
22
26.夜明け前のスケッチブック② 「大元神社」(大分県宇佐市御許山)
宇佐神宮の奥宮にあたる御許(おもと)山「大元神社」。
【祭神】
比賣大神(ひめおほかみ)
┗多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)
┗市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)
┗多岐都比賣命(たきつひめのみこと)
宇佐神宮の縁起は複雑でいろいろな学説があるのですが、宇佐氏・辛島氏・大神氏の三氏族が宇佐神宮の成立に深く関係していたことは間違いないことなのでしょう。
「宇佐宮と辛島氏(生山和四郎 著)」によると、スサノオを始祖とする辛島氏が稲積山の頂上部に霊域を設けて北辰と三女神を奉祀したことに対し、ここ御許山に宇佐氏が三女神を祀ったとのことです。
さらに同書には、
筆者は、辛島氏が祖神とする三女神と守護神の北辰を「辛国宇豆高島」(稲積山)から、そして宇佐氏が同じく三女神と北辰を「馬城峰(まきみね)」(御許山)から亀山に移座して、両氏族の氏神が合祀された時を宇佐宮の起源とする。そしてその時から三女神を統べて一神体として比売大神と呼称するようになり、北辰は脇侍の神に退いたのではないかと考える。
と記述されています。
それから、当社は宇佐神宮の「奥宮」であって「元宮」ではないようなのですが、そのためか、「八幡神」は祀られていません。つまり「八幡神」は後からやって来ているのです。
百嶋氏は講演会でこのように話されています。
さて、宇佐神宮です。元々、宇佐とは八幡宮ではなく、宇佐神宮です。
元は応神天皇よりも宗像三姫君のほうが上なんです。今盛んに、第一宮(応神)、第二宮(三女神)、第三宮(神功皇后)といっているのは高木の大神の系統の連中が言っていたことをそのまま受け取って、えらく威張って応神が偉いように言ったことです。
そして、重要なことはそれぞれに後見人がついていらっしゃる。赤い真ん中の姫三神の後見人は同じ赤の北辰様(別名、天御中主、別名、白山姫)、応神天皇の後見人は海幸彦(ここでは春日大神)、一番右の神功皇后(ここでは神功となっているので神功でゆきます)の後見人は住吉です。
最初の住吉は別ですが、現在は住吉といえば開化天皇です。神功皇后は贈仲哀天皇のお妃であった時期はほんの僅かで神功があの世に行かれるまで、ダンナさまは開化天皇です。
そのことを一番的確に書き記しているのは那珂川町にある在るお宮さんです。神功皇后の年齢まで判る。天御中主神社。今でも神功の本当の神社がここ那珂川町に在って、それを少し、さば読んだのが大阪の住吉宮で、その中間に本物がある。瀬高町の玉垂宮です。そこに本物の本物がある、それは、開化天皇は五・七の桐です。神功皇后は五・三の桐です。
百嶋系図では、北辰は天御中主(アメノミナカヌシ)その人であり、別名、白山姫とも呼ばれています。なので、ここ御許山中腹にも白山神社が当然のように鎮座しているのです。
「宇佐宮と辛島氏(生山和四郎 著)」に記載されている亀山(亀山古墳)は宇佐神宮と同じ場所にあり、亀山古墳の石棺の所在地が宇佐神宮の本殿のようです。
亀山の頂上に、一之殿・二之殿・三之殿の神殿が建立されており、この二之殿と三之殿の下には石棺が埋まっている(「おおいたの古墳と神社(松尾則男 著)」)ということです。
また、宇佐家の口伝には「御量石(みはかりいし)」のことが伝わっているとのことです。この「御量石」は世の盛衰を占うというもので、石棺の蓋であり、二之殿の真下にあるということです。
宇佐神宮を頂点として位置する御許山と稲積山。
御許山から雲ヶ岳へと続くラインは、ストーンサークル(佐田京石)を擁する
米神山に繋がっている。
大元神社 拝殿
拝殿奥の「奥宮」と記された鳥居
鳥居の前には有刺鉄線が張られ、向こう側は禁足地となっています。
大元八坂神社の社殿
奥宮の左手奥に鎮座する水神
(一年中、涸れることなく流れる御神水「三鉢の水」)
境内入り口には御神木の大銀杏がどっしりと構え、聖域を見守ってくれています。
御許山・大元神社へは、日豊本線の西屋敷駅近くから林道を通って車でも登ることができるようですが、悪路であり、途中、危険な箇所もあるため、安心院と宇佐を結ぶ県道658号線から入っていくルートの方がお薦めです。
御許山の中腹に車を駐め、緩やかな登り道を30分ほど進むと、神社参道にたどり着きます。
境内は手入れが非常に行き届いていて、静寂さの中に、厳かで清々しい気が凜と張りつめています。
御許山と峰続きの雲ヶ岳(標高654m)
豊後高田市や周防灘が一望できる雲ヶ岳山頂
御許山中腹に鎮座する白山神社(祭神:白山姫)
白山神社拝殿
拝殿破風に飾られている「日負い鶴」紋と十六葉菊紋
「日負い鶴」を意識するかのような拝殿裏の神木
TB: -- CM: 0
07