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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

4.宇佐市安心院町の妻垣神社と一柱騰宮にアカル姫の足跡を追う③ 

 ここ妻垣神社には、玉依姫が足跡を刻んだと伝えられている「印岩(しるしいわ)」や神職を養成する機関で全国から学生が集まった「騰宮学館(とうぐうがっかん)」跡など、いくつかの史跡が遺されていますが、とりわけ、神社の名前を有名にしている史跡が「あしひとつあがりのみや」ではないでしょうか。

 『古事記』では「足一騰宮」、『日本書紀』では「一柱騰宮」と表記されるこの史跡については、比定される場所が諸説あり、当神社以外にも宇佐神宮の境内内や宇佐市拝田地区などが伝承地として知られています。ただ、いずれも明確に記された文献などの証拠は無いようですね。

この宮の「あしひとつあがりのみや」について、神社HPを見てみましょう。

【共鑰山の足一騰宮
 神武天皇の御母玉依姫命を祀る足一騰宮は、共鑰山の八合目に社ではなく玉垣に囲まれた大石として鎮座します。
 古代の日本では、巨岩や山などに神霊が宿ると考える磐座信仰が主流であり、当社の足一騰宮も、その磐座信仰のひとつと考えられています。またかつては三合目に拝殿があり、4月の元宮祭などの神事をおこなっていましたが、昭和初期に社殿の老朽化により解体されました。

 なるほど、「あしひとつあがりのみや」は共鑰山の八合目に大石として鎮座されているのですね。そして、この山の三合目にはかって、拝殿が建てられていたと…。
 
 では、明治期に作製された神社台帳、「神社明細帳」ではどのように記載されているか、気になりますね。
 早速、めくってみましょう。

 明細帳には、妻垣神社の「あしひとつあがりのみや」は「一柱騰宮」と表記されていて、共鑰山の中央に鎮座する「神石」を御神体とし、縣社・妻垣社の本宮と記されています。また、祭神には「比咩大神」のみが記されていました。
 一方、妻垣神社については、「一柱騰宮を本宮と称し、境外地にある当社を下宮と唱え」と書かれていました。
 つまり、この聖域の本体は、一柱騰宮として鎮座されている「神石」ということなのでしょうか。

 妻垣神社から望む共鑰山
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 共鑰山・八合目付近、神石前のやや急峻な登り
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 玉垣に囲まれ鎮座する「神石」
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 百嶋先生が遺された資料の中に興味深いページがありました。ここ妻垣神社と播磨国の一宮である「伊和神社」とが姉妹神社と記載されているのです。

 Wikipediaで伊和神社について調べてみると、
 ・現在の祭神:大己貴神、配神:少彦名神,下照姫神
 ・『播磨国風土記』の記載では、播磨国の神である伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神とみなせる。
 そして驚いたことに、境内には「鶴石」と呼ばれる、妻垣神社の神石とそっくりな霊石が鎮座されていました。
 
 伊和神社の「鶴石」(Wikipediaからの転載)
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  「伊和(岩)大神」、この神こそが両神社の本来の主祭神であり、アカル姫のことであると、百嶋先生の資料には書かれています。
 では、何故、祭神が入れ替わったのか。
 このことについて資料には、古代、播磨で大己貴の一族と月氏系(蘇我氏の祖先とも云われている渡来人)の軍団との戦いがあり、大己貴一族が勝利したため、祭神が入れ替わったとも記載されていました。
 
 それから、伊和神社の神紋も「五七の桐」(及び十六八重菊)のようですので、この点も類似してますね。

 一柱騰宮についての百嶋先生の資料の一部をご覧ください。

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 「一柱」については、「あしひとつ」とはなかなか読みづらいですね。地元の方も、昔から「いっちゅうとうぐうさん」と呼んで親しんでこられたようです。
 当社の由緒本、「都麻垣宮旧事記」もあるようですが、この史跡が「あしひとつあがりのみや」と比定されるためには、もう少し、確かな根拠がほしいところですね。
 それよりも共鑰山はアカル姫の神体山として、また妻垣神社はアカル姫が住まわれ、イチキシマヒメをお育てになった場所として、古代史にキラリとした貴重な彩りを添えてくれているということではないでしょうか。

 資料にも書かれていますが、共鑰山はアカル姫の神体山。
 隣の山(龍王山)に鎮座する海神社にはアカル姫の弟である豊玉彦とその子供の豊玉姫(=タゴリヒメ)が祀られていますし、同じく豊玉彦(=建角身=豊国主)の子供である鴨・玉依姫(=タギツヒメ:御母はイカコヤヒメ=クシナダヒメ)もこの妻垣との関係が深いとのことで、ここにアカル姫とスサノヲの子供である市杵島姫命(イチキシマヒメ)が加わると、宗像三女神が揃ったことになります。
 古代の安心院盆地では、子供時代の三女神が無邪気に飛び跳ねて遊んでいたのでしょうか。近くには三女神社も鎮座されています。

 その市杵島姫命(=佐用姫:アカル姫とスサノヲの子供)は、当神社近くの佐田神社で、佐田大神(=オオヤマクイ=大直日)をお生みになっているとのことです。

 アカル姫は中津市の古要神社や福岡県吉富町の古表神社にも足跡を残され、その後、家都美御子神(けつみみこのおおかみ)として熊野本宮大社に安住されたとのことです。
 なぜ、アカル姫が家都美御子神という名前で鎮座されているのか、これについても今後、スサノヲとの関係をベースにボチボチと考えていきたいと思っています。

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Posted on 2016/07/26 Tue. 22:49 [edit]

category: 日記・古代史

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3.宇佐市安心院町の妻垣神社と一柱騰宮にアカル姫の足跡を追う② 

 祭神について、当神社HPには、「比咩大神こと玉依姫命は、海神豊玉彦命を父にもち、姉は豊玉姫命とされる。豊玉姫命の子、鵜葺草葺不合命を育て、後に妻となり、のちの初代天皇となる神武天皇を産み育てられた神である。と記載されています。
 
 百嶋神社考古学では、この地を訪れ、宇佐国造の祖であるウサツヒコ・ウサツヒメ兄妹からの饗応を受けた命は神武天皇ではなく、藤原氏らによって第10代天皇としての諡号を贈られた、(贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦=中筒男)としています。

 系図1

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 とすれば、系図1に示しているように、母君は(鴨)玉依姫ということになりますね。


 系図2

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 そして、(鴨)玉依姫は系図2のとおり、豊玉彦とイカコヤヒメ(スサノヲと離婚した後の櫛稲田姫)の子供であり、豊玉姫は豊玉彦と豊秋ツ姫の子供となっています。
 なるほど、神社HPの由緒にも玉依姫と豊玉姫は姉妹と書かれてますね。ただし、母君が違っていたということでしょうか。

それから大事なことですが、祭神の比咩大神が、今回の主役であるアカル姫(イワナガ媛)なのです。       

アカル姫はについて、Wikipediaの記述を見てみましょう。
 
 阿加流比売神(あかるひめのかみ)は、日本神話に登場する、日の出の太陽を表す赤い瑪瑙の玉の化身とされる女神である。
 『古事記』では新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となっている。
 『日本書紀』では名前の記述がないが、意富加羅国王の子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が追いかける童女のエピソードと同一である。『記紀』で国や夫や女の名は異なっているが、両者の説話の内容は大変似通っている。

 再度、系図2を確認していただきたいのですが、アカル姫は豊玉彦と姉弟で、ともに大幡主(博多・櫛田神社の祭神)の子供とされています。
 
 そして、大幡主の一族には白族(ペー族=自称: ペーホー Baipho)と記されていますね。この白族とは中国雲南省大理ペー族自治州を中心に住む民族のことで、米を主食にしたりワサビを食用にするなど、日本人と共通する文化が見られるようです(Wikipedia)。

 未婚女性が頭に巻き付ける白い羽根飾りが特徴的で、これが民族名の由来となっているようで、アカル姫もこの白族の血を受け継いでいたのでしょうね。


 アカル姫が日本に渡ってきたルートについては朝鮮半島から但馬国(兵庫県)を経由し、そして大分県は国東半島近くの姫島に入られたとのことです。その後、国東半島を経て大分の奥地へと進み、ここ安心院の妻垣にやってこられたと百嶋先生はお話しなさっています。

 そして、夫である天日槍(あめのひぼこ=スサノヲ)もアカル姫の後を追うように新羅から日本に渡ってきたとのことでした。

 

 ここ妻垣神社の周辺には、宗像三女神をお祀りする「三女神社」や幕末に境内で大砲が鋳造されたことで知られる「佐田神社」が鎮座しています。

 先に紹介した、この妻垣神社が鎮座する共鑰山(ともかぎやま)の隣、「龍王山」に鎮座する「海神社(かいじんじゃ)」を含め、いずれの神社も安心院盆地の周辺部の、道路から駆け登ったような位置に鎮座されています。この地を静かに見守っているかのようですね。


 安心院盆地を見守る

 共鑰山(向かって左)と龍王山                

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 系図3

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 それから、アカル姫の御母についてですが、百嶋神社考古学では、イザナミはイザナギと離婚した後、「熊野フスミ」とお名前を変えられて大幡主と結婚し、アカル姫と豊玉彦(ヤタガラス=豊国主)をお産みになられています(系図3)。

 古代日本では、周王朝系呉国・太白の流れを汲む正統な皇統(神武天皇など姫氏)を中心として日本を一つの国にまとめ上げるため、政略結婚が盛んに行われたようです。そして、その度に名前も変えられてきたとのことです。

 アカル姫も「イワナガ媛」と名前を変え、この後、八幡古表神社(福岡県築上郡吉富町)に移られたそうです。

 なお、アカル姫の誕生は西暦130年頃と考えられています。


 境内入り口の鳥居と参道

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Posted on 2016/07/10 Sun. 17:27 [edit]

category: 日記・古代史

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2.宇佐市安心院町の妻垣神社と一柱騰宮にアカル姫の足跡を追う① 

 古代のまち、安心院(あじむ)。
 昭和の文豪 松本清張を魅了し、小説「陸行水行(りくこうすいこう)」にも登場するこの町の「あじむ」とういう地名の起こりについては、海洋部族の阿曇(あづみ=安曇)族が発祥のもととなっていると同氏は考えていました。
 大分県北部の山中、この安心院盆地に海の部族がいたことについては、松本清張はこう記しています。

「安心院は現在は山々に囲まれた内陸であるが、この台地の北裾にあたる豊前四日市あたりまでは沖積層で、周防灘がすぐ近くまで入り込んでいたことがわかる。安曇族の漁業基地だったのが、種族の盆地居住で農耕化したのは、信州安曇郡の場合と同じだろう。」(『文藝春秋』昭和56年8月号)

 盆地中央に位置する龍王山には海神社が鎮座されており、神社からは、安心院盆地が一望できるそうです。山あいの地域の中心に海神社が祀られている例は全国でも他に見あたらないだろうと言われています(『松本清張と安心院・隠れた九州の霊地』松本清張とふるさと安心院の会発行)。
 妻垣(つまがき,ともがき)神社は、その龍王山と仲良く並んで座している共鑰山(ともかぎやま)の裾野で、御神体でもある共鑰山を仰ぎ見るように鎮座されています。
 神社の由緒を神社HPで見てみましょう。

「妻垣神社の始まり」
 今より2600年も遥か昔、日向を発し東国へ向かわれる途中、神武天皇は宇佐の地に立ち寄られました。
 その際、宇佐国造の祖であるウサツヒコ・ウサツヒメの兄妹は一行を迎え入れ、宮を造り盛大にもてなしました。
 翌朝、天皇は朝霧の素晴らしいこの地をご覧になり、いたくお気に召されました。
 天皇は連なる山々よりひと際輝く共鑰山に御母玉依姫命の御霊をお祀りする社をお造りになり、自ら祭主となって、玉依姫命の御霊を共鑰山にお迎えし、社を「足一騰宮」と名付けられました。このことにより当社の歴史は始まりました。

「社殿の創建」
 社殿の創建は天平神護元年(765)閏10月8日、宇佐宮の八幡大神は勅使石川朝臣豊成に『我はすでに共鑰山に示現しているので社殿を設け祀るように』との御神託を下されました。
 そこで豊成は当地に社殿を造り、比咩大神・八幡大神を併せて祀られました。また天長年間(823~834)には宇佐宮より神功皇后が勧請されました。
 以後当社は比咩大神を主祭神として、宇佐宮八ヶ社の一社となったのです。

「御祭神
 当社の主祭神は、比咩大神(ひめおおかみ)という女神である。
 承和11年(844)の「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起(承和縁起)」によると、比咩大神は、宇佐神宮第二殿の比売大神と同神であり、共鑰山を比売大神の元宮と称すと記されているように、天平5年(733)比咩大神は『我、八幡大神に副い奉らん』との御神託を下され、宇佐宮第二御殿にて祀られる。
 当社 本殿(下宮)には主祭神比咩大神を一ノ殿にお祀りし、二ノ殿に八幡大神、三ノ殿に神功皇后をお祀りしている。

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共鑰山に正対する随神門


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拝殿


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申殿・本殿


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拝殿・申殿内


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本来の参道に建つ西門


 参拝したこの日、応対していただいた、現・宮司の小野氏に
 「本当に神武天皇はこの地まで、お見えになったんでしょうか?ハツクニシラスと称している崇神天皇ではないかとの説もあるようですが..」と思い切って問うてみました。
 小野宮司は苦笑しながらも、はっきりした口調で否定されました。ただ、いろんな説があることも承知しているようでした。
 そして、神紋についても尋ねてみました。
 妻垣神社の神紋は公式には「三つ巴」とされていますが、本殿の屋根には、五七桐紋と花菱が打たれていますし、また橘紋も見受けられます。

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花菱(向かって左)と五七桐紋(右)


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橘紋


 小野宮司よれば、社殿は戦国大名大友氏の兵火によって一度、焼失してしまったが、黒田長政公によって再建され、その後も、細川・松平・奥平氏と歴代藩主の崇敬を戴いてきたことから、神紋もそれらの影響が大きいのではないかと説明していただきました。また、神輿の担ぎ手である氏子さん方の家紋とも関係あるのではないかとも。当神社に神輿が3基あり、いずれにも担ぎ手である氏子の家紋「五三桐」、「橘」、「三つ巴」が描かれているとのことです。

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神輿庫の扉に描かれた担ぎ手である氏子のそれぞれの家紋

 
 このうち「橘」紋の矢野家は、江戸時代までは「矢侯(やこう)」姓を名乗っていたそうで、天種子命(あめのたねこのみこと=中臣(なかとみ)氏の遠祖であり、神武天皇の東征に従軍し,筑紫の宇佐で菟狭津媛(うさつひめ)と結婚したとつたえられている。)を祖先としているとのことでした。 


Posted on 2016/07/08 Fri. 22:15 [edit]

category: 日記・古代史

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