ひとつあがりのカフェテラス
古代日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。
5.【神武天皇伝承】御座船停泊の島(大分市津守碇島の熊野神社)
九州の中央部を東西に横断する豊肥本線は、JR大分駅から熊本駅までの間、阿蘇山の世界的な規模を持つカルデラの中を横切るなど、「阿蘇高原線」(あそこうげんせん)の愛称とともに観光路線として親しまれていますが、大分・熊本両市内では、どちらかというと通勤・通学路線としての色合いが濃いようです。
大分駅に近い敷戸駅では、大分方面に向かう通勤・通学の一団がぎっしりと立ち並び、単式のホームを埋め尽くしている光景が朝の定番となっています。
その敷戸駅と大分駅のちょうど真ん中に滝尾駅があり、今回紹介する「碇山(いかりやま)」はこの滝尾駅のすぐ側に位置しており、山全体が公園として整備されています。
この碇山(いかりやま)は標高56mと大分県で最も低い山として知られています。そして、別名碇島とも呼ばれ、昔は海に浮かぶ小島であったと伝えられており、神武天皇が東遷の折に投錨したとの伝説が残されているのです。
早速、公園入り口の案内板を見てみましょう。
【碇島(いかりじま)】
田園の中から突然飛び出したような特異な碇島(56m)は、大昔から里人に愛され親しまれて来ました。神と仏が宿る碇島は、おおいたの自然と歴史を伝える観光拠点です。
その誕生は、今から9万年前の阿蘇山の大爆発によって噴出した火砕流の堆積によるものだといわれています。
太古の歴史をもつ碇島は、古代海の中にあったと伝えられています。初代神武天皇が御東征のおり、この島にともづなを結ばれ碇(いかり)を下ろしたと伝えられる伝説の島です。故に土地の戸籍である字名は「島」となっています。(中略)
碇島は天下の景勝地にとどまらず、山腹から弥生時代中期の土器が出土し、古墳時代後期の横穴墓が築かれた古代史の宝庫でもあります。(中略)
山を巡れば大友氏ゆかりの熊野神社・立石尾(たてしお)神社・巨大な一字一石如法塔・旧越前福井藩主松平忠直(まつだいらただなお)の廟所(六角堂)・真田幸村の愛馬の墓・金比羅社・四国霊場八十八ヶ所(略)など多くの史跡に出会うことができます。(略)
小島を思わせる碇山の全景
境内入り口の大鳥居
なるほど、往古、この地域は海だったようですね。
百嶋神社考古学では神武天皇の国内御巡幸は西暦165年頃のこととされています。東征ではなく、あくまでも巡幸で、それは九州の西海岸を北上し、東北地方まで赴かれたとのことです。
そして、神武天皇東征の伝承については、(贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦)のエピソードであるとしています。
ただ、「伊勢本社(佐伯市 蒲江 畑野浦)」の項でも説明しましたが、古文書「ウエツフミ」には九州の東海岸に神武天皇が率いる船団の軍事基地があったとも記載されているようですので、ここのところはより丁寧な調査が今後も必要とされる部分ではあります。
では、当時の大分市の海岸線はどんな状況だったのでしょうか。
図1 文化財ガイド(大分市歴史資料館作成)
図1は、大分市の遺跡の状況を表したものです。
考古学の専門家によれば、弥生時代後期は縄文海進の時代とは違って、大分市の海岸線は現在のものとあまり大きく変わっていないそうです。
ただ、当時はもっと河川幅が広かったと考えられるため、大分川の右岸から豊肥本線までの地域(津守地区などの熊野神社が鎮座する碇山の西側)では船による往来も可能だったのではないか、とのことでした。
であれば、「この島にともづなを結ばれ碇(いかり)を下ろした」とのくだりが何となく真実味を帯びてきますね。
ともづなを結んだ岩は崩落のおそれがあったため撤去されていて、今は碇山の東側に、その跡が残されているのみでした。
ともづなを結んだと伝えられる岩場近くの様子
それでは頂上を目指して、つづら折られた参道をゆっくりと登っていきましょう。
社務所と平家石と呼ばれる巨岩(中がくりぬかれて祠になっている)
明治期、山腹には四国八十八ヶ所霊場が開場されていました。
通称『六角堂』と呼ばれる松平忠直公(一伯公)の墓所
公園入り口の案内図にも描かれていましたが、ゆるやかな参道の途中にはいくつもの史跡があり、楽しみながら、登り上がることができました。
そして、熊野神社です。
境内入口の山門と石の参道
山門
正面に唐破風と千鳥破風を配し、堂々とした造りの拝殿
拝殿・申殿内
拝殿正面(千鳥破風の下に龍の鬼瓦付きの唐破風が付けられるという豪華な造り)
本殿(銅葺屋根の三間社流造で重厚な造り。妻部分や脇障子の彫刻も見事)
本殿屋根(千木は外削ぎ)
本殿屋根(瓦に施されている神紋は全て徳川葵)
山門のすぐ側に立つ、説明板によると、祭神は、国狭鎚尊(くにさづちのみこと)、豊斟渟尊(とよくむすのみこと)、伊弉册尊(いざなみのみこと)、事解男命(ことさかおのかみ)、速玉男命(はやたまのおのかみ)、軻遇突智命(かくつちのかみ)となっています。
そして、由緒については、建久7年(1196年)の創始となっており、豊後の守護職に任ぜられた大友能直が九州鎮護のため紀州熊野三山大権現を勧請し創建したとのことです。
元は津守の字「庄ノ元」に鎮座していたのですが、明治44年(1911年)、現在地に遷座したようです。その時、以前からこの地に鎮座していた愛宕神社の祭神・軻遇突智命と合祀し『津守神社』と改称。その後、昭和6年に再び『熊野神社』と名称を戻したようです。
社殿は、江戸時代の始め、津守に配流となった越前の松平忠直(一伯公)が当社を篤く崇敬し再建したとのことで、屋根の随所に徳川葵の紋が施されていました。
つまり、この碇山には元々、「軻遇突智命」を祭神とする愛宕神社が鎮座されていたということのようですね。そこのところを明治期に作製された神社の台帳「神社明細帳」でも確認してみましょう。
明細帳でも同様の経緯が記されていて、熊野神社の祭神である「事解男命」以下5柱が、後から合祀されたとしっかりと書かれています。
百嶋系図では、国狭鎚尊=事解男命=金山彦、豊斟渟尊=豊玉彦(豊国主)、伊弉册尊=熊野久須美(熊野那智大社の主祭神)、速玉男命=大幡主(博多・櫛田神社の主祭神)であり、愛宕神社の軻遇突智命は金山彦とされています。
金山彦はモーゼ直系のヘブライ系瀛(えい又は、いん)氏で、鉱山技師であるとともに、神武天皇の親衛隊長でもあります。
ですから、神武天皇と行動を共にしていたであろうことは容易に想像できますが、「伊勢本社(佐伯市 蒲江 畑野浦)」のように金山彦尊としてではなく、軻遇突智命などの別の御名前で祀られていることが何となく引っかかりますね。
では、境内社を確認してみましょう。
神社明細牒によると境内神社は8社で、いずれも石祠と記載されています。
うち、「建久7年、大友能直造営」と記されているものは、稲荷神社(祭神:倉稲魂命)、池之神社(祭神:罔象女命(みつはのめのみこと)=神大市姫=スサノウ妃)、厳島神社(祭神:市杵島姫命)、所神社(祭神:埴山姫命=草野姫=金山彦妃)、天満神社(祭神:菅原神)の5社となっており、由緒の不明なものが、立石尾神社(祭神:大己貴命)、金刀比羅神社(祭神:大物主命)、天満神社(祭神:菅原神)の3社となっています。
とりわけ、立石尾神社は、もと「立塩社」と称し,津守村内の立石尾という地に鎮座していましたが、寛保3年(1743年)、暴風雨のため社殿が倒壊した際,康永4年(1345年)の年号が刻まれた「立石尾社」の石殿が出てきたとのことで、南北朝以前創立の古社のようです。石祠に打たれている桜様の紋には紅色が薄く残されていました。
また、金刀比羅神社の祭神である大物主命については、百嶋神社考古学では「大山咋(おおやまくい)」=佐田大神=日吉神社=日枝神社=松尾神社としています。
大山咋(=佐田大神)は県北の「佐田神社(宇佐市安心院)」でお生まれになり、御母は市杵島姫命とされています。
そして、この大山咋の御子が神武天皇東征のモデルとなっている(贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦)なのです。
立石尾社の石祠:桜様の紋に紅色が…。
金刀比羅神社
山頂広場にある境内社の石祠
こうしてみると、この碇山と関係の深い祭神は愛宕神社の軻遇突智命と由緒不詳である金刀比羅神社の大物主命というところでしょうか。
愛宕神社については、
京都市右京区嵯峨愛宕町の愛宕山の山上に鎮座する愛宕神社を本源とし、古くから、愛宕権現の名で親しまれ、防火の神として強い信仰を集め、中世以降は修験者の行場としても栄えた(日本の神様読み解き辞典)、とあります。
また、神武天皇(神日本磐余彦尊)の御神霊も祀られていないことなどを考え合わせると、神武伝承とはあまり関連がなく、どちらかというと、(贈)崇神天皇の御座船が繋がれたいた可能性の方が強いのかもしれませんね。
往古、神武天皇率いる皇船が繋がれ碇を下ろしたと伝わる碇山は、夏の強い日射しを静かに浴びながら、世の変遷を今日も静かに見守っているかのようでした。
田園に浮かぶ碇島
山頂からの大分市街(別府湾方面を臨む)
真田幸村の愛馬の墓
【お知らせ】
「大分神代史研究会(仮称)」の設立を計画しています!
★主な活動内容
・フィールドワーク:大分を主体にした神社調査
・デスクワーク :百嶋神社考古学に基づく神代史勉強会
★監修並びに特別講師:久留米地名研究会(神社考古学研究班)
古川 清久 氏
【興味のある方は是非、ご連絡ください。】
E-mail : nanasegawa.hiro@gmail.com
【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/
TB: -- CM: 0
03
| h o m e |