ひとつあがりのカフェテラス
古代日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。
12.八幡古表神社・古要神社とアカル姫①
先日、ひぼろぎ逍遥の古川清久氏に「今度は、古要神社(大分県中津市)、八幡古表神社(福岡県吉富町)とアカル姫(イワナガ姫)との関係を書くつもりです」と話をしたところ、すかさず、「古要・古表は難しいよぉ」って、とてもアッサリとしたアドバイスをいただきました。
そうなんです。
確かに難しいですね。
ましてや、アカル姫(イワナガ姫)の足跡を探るなどとは、雨夜の月と申しますか、確証を掴めずにして当然なのかもしれません。
ただ、アカル姫の追っかけをやっている私めとしては、この辺で一度、古要・古表について整理しておこうと思った次第です。
さらに、大分県内にはイワナガ姫を祀っている「雲見神社」がいくつか鎮座しており、ここのところも非常に興味のあるところなので、今後、徐々にレポートをアップしていきたいと思っております。
八幡古表神社と古要神社は、どちらも傀儡子(くぐつ=繰り人形)による神舞や神相撲(傀儡子による神様の相撲)がつとに有名で、宇佐神宮の放生会で奉納されてきました。
その古表、古要について、百嶋先生は(「肥後翁のblog」から転載)、
古表宮のことを申し上げましたので、古要を申し上げます。
古表は福岡県側の吉冨町、古要は大分県側の中津市にあります。
どちらも秦の始皇帝のところに西の方から逃げてきた逃げてきた逃げてきたの、後々、氵嬴(イン)一族といわれた人々の一時の仮住まいがここにあったのです。
どこを意味しているかというと、胡は胡人の胡です。
胡は西から来た人という意味です。
次は、表、要の地はどこにあるかというと大体、酒泉、これはですね、万里の長城、万里の長城の東の終点から、日本の方を眺めると、時たま、変な画像が浮かび上がるそうです。
日本があるんですよ。
東の端っこです。
そして、万里以上の遠いところに酒泉がある。
別の名前は嘉峪関(かよくかん)、万里の長城の西の終点です。
熊本城とそっくりです。
一万六千里くらい離れている。
そして、嘉峪関の近く、同じ場所に酒泉がある。
酒泉の意味は、2100年前に漢の武帝がやられてやられてやられっぱなしであった匈奴をやっつけてホッとして、将兵の苦労をねぎらう為に大きな酒樽を酒泉に運びまして、それでもその兵隊の数に足りないので、ここの泉に酒樽の酒をどーと投げ込んでみんなで夜光杯をかたむけたんです。
夜光杯は玉(ぎょく)です。
これを何万の将兵が酒泉に投げ込まれた酒兼水を夜光杯でかたむけたのです。
(中略)
例えば、さっき申し上げましたように、「要」という地名が酒泉の近くに今もあるんですよ。
それから、「支那」という地名も今の中国の雲南省の地図にあるんです。
「表」の地名についても、酒泉の近くに同じ名前があると思って探しております。
と、話されています。
また、アカル姫については、
そしてこの方が最初、日本に入られる前のお名前はアカル姫です。
そして、ダンナの名前は、朝鮮半島から追いかけてきた天の日槍(後に、日本での名前は素戔鳴尊)です。
アカル姫のコースを申し上げます。
まず、日本に最初に入ってこられた場所は但馬国、現在の兵庫県です。
それから大分県の国東半島の姫島です。
そして国東半島に上陸します。
そして奥の方にはいられて安心院です。
そして表に出てらっしゃたのは神相撲をしている古表宮です。
“古”は“胡”の意味です。
そして、いまでは岩長媛となられたのです。
とも話されています。
大分県との県境(福岡県築上郡吉富町)に鎮座する「八幡古表神社」は、五月の若葉のように瑞々しく、凜とした、とても気品に満ちたお宮さんですね。
神門前の鳥居と参道
大きな唐破風が特徴の随神門
神門からの社殿。
正面は八幡宮(息長大神宮(おきながだいじんぐう))。
その両脇に四十柱宮(よそはしらぐう=古表大明神)と住吉神社が鎮座。
御本社・八幡宮(息長大神宮)
御本社・拝殿
御本社・申殿に掲げられている当神社の別称「吹出濱神社」の神額
四十柱宮
四十柱宮の拝殿-申殿
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11.【神武天皇伝承】柁鼻神社(宇佐市大字和気)②
元永宮司から手渡された資料を転記します。
『神社創建と起源』
仲哀天皇九年庚辰九月十日、神功皇后新羅征討ノ為、諸国ニ令シテ船舶ヲ集メ給フ時 造船ヲ当タリテ御船ノ柁ヲ納メラレ祭祀ヲ行ヒシヲ創祀トスル神社ナリ。
続いて、八幡宮本紀と庄屋和気家に伝わっている古書からの抜粋箇所が根拠として示されていました。
「八幡宮本紀 巻二」
秋九月十日、諸国ニ令シテ船舶ヲ集メ、兵甲ヲ練ラシメ給フ。
古傳ノ説ニ、皇后此時 長門ノ国厚狭郡船木山ニテ木ヲキラセ(よってその所を船木山と云ふ)
豊前国宇佐郡和間浜ニテ四十八艘ノ御船ヲ造ラセ給フトイヘリ
和間ノ浜ノ所入江ト云所ニ此時ヲツナガレシト云傅ヘタル大石今ニアリ
又其ホトリ柁ガハナト云所ニ小社アリ、是ハ皇后ノ御船ノ柁ヲ納メラレシヲ神に祭ルト云フ。
此時新造ノ船ノ事ヲ世俗聞アヤマリテ皇后 異国ニオモムカセ給フ時ノ軍船ノ数ヲモ四十八艘トハ云フナロロシ。
「庄屋和気家ニ伝ハル傳記古書」
「仲哀天皇九年八、九ノ頃 神功皇后小社ヲ営シ伏敵柁鼻宮ト称シ給フ」
云々ノ記録アリ。
推定スルニ、當柁鼻神社ハ、昭和十五年七月 文部省ニ於イテ紀元二千六百年奉祝会ニ於テ調査依嘱セラレ 二、三年前ヨリ調査中ノ処、神武天皇御聖蹟菟狹ノ地点地域ニ指定セラレタル、神武天皇御聖蹟ノ入り口デアル 大分県宇佐郡北馬城村大字和気ニ鎮座スルコトハ、誠ニ意味アル事ナリ。
即チ 神武天皇御聖蹟菟狹ノ地点地域ノ中デ唯一ツ神武天皇、即チ神日本磐余彦尊、彦五瀬尊、彦漱波武鵜草不葺合尊ノ三神ヲ祀ル、柁鼻神社ノ鎮座スルコトハ他ニ例ノ無イコトデアル。
神武天皇聖蹟調査については、昭和15年、紀元二千六百年奉祝事業の一環として、「紀元二千六百年奉祝会」が文部省に委嘱し実施されたようです。
全国で19箇所を聖蹟と指定し、花崗岩製の顕彰碑が建てられたとのことです。
「菟狹ノ地点」は「聖蹟推考地(価値ある学説または資料により推考し得るもの)」として選定され、宇佐神宮内に顕彰碑が建てられています。
この顕彰碑によると、「菟狹ノ地点」は、菟狭津彦(うさつひこ)、菟狭津媛(うさつひめ)の兄妹が神武天皇を饗応したと伝えられる「一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)」の候補地の一つである宇佐神宮境内の地点(有力な候補地はこのほかに県内2箇所)と神武天皇の上陸地とされる柁鼻の地点とがセットで選定されているようです。
ただ、この事業については顕彰碑が建てられ終わっているようで、多分に政治色が強かったのではないでしょうか。
當神社ハ、神功皇后新羅征討ノ際 軍船ノ柁ヲ納メテ神祭セシ小社ナリトスルモ、前記、三神ヲ主祭神トシ神社名モ柁鼻神社ト称スル点等ヨリ考察スルニ神武天皇御東遷時代ヨリノ聖地ナリシコトヲ肯定セラルルデアロウ。
即チ、神武天皇、菟狹御駐輦ニ際シ皇船ハコノ柁鼻ヲ目標ニシテ寄港セラレ給ヒシモノト推定ハ、昨年 度々ノ調査ノ為来宮セル 神武天皇御聖蹟調査委員ノ何レモ肯定スルトコロニシテ、カルガ故ニ、北馬城大字和気、大字橋津ヨリ宇佐町大字南宇佐一帯ノ宇佐神宮ヲ中心トシタチイキヲ聖蹟トシテ指定セラレタルモノデアル。
殊ニマタ、神武天皇ノ御東遷 菟狹御駐輦ノ際、彦五瀬命御船ヲ繋ギ奉リシ「天石」ト称スルモノ遺ル事、並ニ彦五瀬命 此ノ地ノ豪族多比彦ノ女、千(瑣)子ヲ御寵愛セラレ給ヒ、諏訪田主ヲ生レ給ヒシ等傳説ノ存在スルトコロナリ。
さらに、この柁神について、庄屋和気家に伝わる古書には、
柁神命ハ御船ノ柁ヲ指シタルモノト思ウガ、同時ニ、八幡大神ガ欽明天皇二十九年ヨリ同三十二年、御神名ヲ告ゲサセ給フ迄ノ間、鍛冶ノ翁ノ姿ヲセラレ給フコトヲ思ウ時、柁神命、即チ、鍛冶神命ナランカト思ワレル。
(中略)
蓋シ、此ノ入江ニ臨ム柁鼻ノ聖地ガ、又航海上ノ重要ナル濱デモアッタ関係カラ、和気清麿公ガ上陸ノ地点デアリ、現ニ御船ヲ繋ギシ舟繋石モ現存シ、代々ノ宇佐神宮ノ勅使、和気使トノ重要ナル縁故モ生レ和気氏ノ住ム処トナリ大字和気ノ地名モ生レタ理由デアル。
と、誌されています。
なるほど、
要するに、神功皇后が朝鮮出兵に際して48隻の船を隣接する字入江に集め、船の柁を入れて祈ったということで、この柁を祀った所に柁神の小社を建てたのが柁鼻神社の草創であるとのことですね。
そして、その柁神は八幡大神の化身である鍛冶の神の可能性もあるかもしれないということでしょうか。
ただ、庄屋和気家に伝わる古書の中で、非常に気になった箇所があります。
「並ニ彦五瀬命 此ノ地ノ豪族多比彦ノ女、千(瑣)子ヲ御寵愛セラレ給ヒ、諏訪田主ヲ生レ給ヒシ等傳説ノ存在スルトコロナリ」
古書の中には口伝を書き留めたものも多いのでしょう。
それ故、どのような書かれ方をしているのか、また、どういった古書なのか、やはり原本が気になるところです。
そこのところを元永宮司に相談したところ、
庄屋和気家は、代々、柁鼻神社近くに住まわれていたのですが、現在では、すでに転居されていて、原本などを確認することは難しいようでした。
ここに登場する「多比彦(おおひこ)」は、百嶋系図では神沼河耳(=高龗神=(贈)綏靖天皇)や草部吉見(=海幸彦=天忍穂耳=(贈)孝昭天皇)などの阿蘇一族であることに間違いないでしょう。
当社の合祀神にも高龗尊がちゃんと祀られています。
阿蘇家についての百嶋先生の講演記録の一部です(「肥後翁のblog」から転載)。
阿蘇家のもとの苗字は、「多(オオ:中国発音ツォ)」、それがこっちに来て、いちおう阿蘇に住んでいるから「阿蘇」と名乗ろう、そして途中、「宇治」に行ったので、宇治と名乗ろうという時期もあった。
また、阿蘇に帰ってきたので「阿蘇」に戻った。ところが、南北朝の戦乱があって、阿蘇家の大将、阿蘇惟直さんは佐賀県の天山で戦死なさいました。
天山の頂上には阿蘇惟直公のお墓があります。そういうことで今度はこれは困ったということで、阿蘇家の一族の恵良さんが、恵良というのは豊後玖珠郡です。
恵良惟ズミさんが一時期阿蘇家の指揮をお取りになりました。
そしてその後、阿蘇に戻ります。
こういう風にして、阿蘇家が、もともとの多が、阿蘇に落ち着くまで相当時間を経ています。そして、多のほうはどうなったかというと、春日の大神の系統は未だに多です。
そして、多神社は阿蘇神社とは言わずに多神社として、奈良県の田原本町にございます。
堂々たる古いお宮です。多神社、そしてこっちのほうは阿蘇神社になっていますね。
一応、阿蘇神社のほうが本家という風に世の中変わってしまいましたので、多神社は阿蘇家としては分社みたいになってしまって、堂々たるお宮ですけれども昔の栄光は失せております。
(中略)
先日、私は多さんに会ってきました。
この多さんは日本の多さんではなく、阿蘇家の先祖多さんが鎮座しておられる雲南省の麗江です。
場所は、ヒマラヤの東に属する標高2400mのものすごく水に恵まれた世界の桃源郷の一つです。
ここの麗江に多さんのご先祖の多大将軍の銅像がございまして、銅像だけではなくて、霊廟もたくさんあるんです。
それから、「諏訪田主」は 建御名方(= 建南方=諏訪大社の主祭神)で良いかと思います。
通説では、建御名方は大国主の御二男とされていますが、百嶋神社考古学ではスサノオの娘であるオキツヨソ足姫(ナガスネ彦の妹)の御子(御父は海幸彦、鹿島大神、春日大神、天忍穂耳、支那都彦、天児屋根…)のようなのです。
宇佐市と隣接する中津市を含む下毛郡や福岡県の旧上毛郡などを併せた一帯は、古代には三毛郡(みけのこおり)と呼ばれ、スサノオが治めていたと百嶋先生は話されています。
このうち吉富町などの「富(登美)」が付く地名や金富神社、大富神社などについては、ナガスネヒコと関係が深いとのことです。
往古、スサノオやナガスネヒコの御一家がこの地域近くに居を構えていたのかもしれませんが、ここのところについては、今後も、より丁寧な調査が必要ですね。
そして、オキツヨソ足姫は武内足尼(タケウチタラシニ)と名前を替えられ、豊玉彦とも通婚されています。
このため、建御名方は、白族(中国大陸の奥地の雲南省にいる白族=ペイツー=ペーホ―族)の流れを強く受け継ぐ豊玉彦(=豊国主)の御子ともなるのです。
名前に「主」の文字が使われても不思議ではないのかもしれません。
「主」の文字と白族の関係は「ひぼろぎ逍遥(173 博多の櫛田神社の祭神とは何か?)」で古川清久氏が詳しく述べられていますが、要するに「大幡主」「天御中主」「大国主」「事代主」「大物主」などの「主」の文字は、白族の、その時々の重要人物の尊称だということのようです。
ここまで考えを進めて、ようやく当社の神紋と本殿素屋に掲げられている扁額の文字の「鼻」の字が「自」ではなく「白」となっていた意味が解ってきました。
上り藤と梶の葉の神紋は、天児屋根(藤原氏の祖神)と諏訪神が合わさったものなのでしょう。
また、扁額の文字に使われている「白」の字は、白族の流れを意味しているのではないでしょうか。
西側の境内入り口と参道
舞殿
境内社と祖霊社
勅使 和気清麿公の上陸の地とも伝えられている(神社東側の船繋石)
こうしてみると、柁鼻神社は宇佐神宮の近くにありながら、あまり神宮の影響を受けていないように感じられました。
柁鼻神社について、日本歴史地名大系第45巻(大分県の地名)には、
暦応3年(1340年)の大神宇貞重申状(小山田文書)などに加礼井明神とあることから、本来は乾飯の神、つまり旅行安全を守る神で、古代に猫橋(寄藻川に架かっていた低いめがね橋(橋津橋))の港から出航する船の守護神であったものか
と誌されています。
「加礼井明神」? 「乾飯の神」?
またまた、一考する価値がありそうですが、
先ほどから、我が家のワガママ娘(トイプードル)が遊んでくれとしきりに催促してくるので、この明神様については、またの機会といたしましょう。
【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/
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10.【神武天皇伝承】柁鼻神社(宇佐市大字和気)①
宇佐神宮の北辺を流れ、神宮の神域を画している川が寄藻(よりも)川です。
参道にはこの川を越えて、入ることになります。
宇佐神宮の呉橋と寄藻川
川の源は、御許山の南麓。
放生会が行われる和間の浜で、周防灘に注いでいます。
寄藻川は、宇佐神宮付近では、古来から様々な名で呼ばれています。
呉橋より上流は寄藻川または呉橋川、呉橋から表参道の神橋までは月瀬川、そして神橋から宇佐神宮の境域付近は浅瀬川となるようです。
『影見れば 月も南に よりも川 清き流を渡る宮人』(玄旨法印 宇佐小鑑伝)
この歌を詠んだ玄旨法印(げんしほういん)とは細川幽斎(戦国-江戸時代前期の武将・歌人)のことで、細川忠興(ただおき)の父なんですね。
寄藻川の源を発する御許山には宇佐神宮の奥宮が鎮座されています。
山頂は聖域とされ、禁足地ともなっています。
まさに「清き流」なのです。
宇佐神宮を離れた寄藻川は、やがて向きを北に変え、穏やかに蛇行しながら周防灘を目指します。
途中、国道や線路を横切り、北流する向野川を合わせ、宇佐市と豊後高田市との境界を画しながら、河口で桂川と接し、周防灘に注ぎ出でています。
ここ、「柁鼻(かじはな)神社」は、寄藻川が国道を横切ったあたりに鎮座しています。
そして、この柁鼻の地にも、神武天皇東遷の折、御一行が上陸されたとの伝承が残されているのです。
往古、この付近まで海だったのでしょうか?
確かに神社から北方向、遙か遠くまで宇佐平野の田園地帯が広がっていて、海岸までは遮るものもないようです。
文献で確認してみましょう。
中世の宇佐宮周辺図(「八幡神とはなにか」:飯沼賢司著)によると周防灘に面した海岸線は和間の浜から柁鼻神社近くまで、寄藻川の注ぎ口に向かうように内陸側に大きく切れ込み、湾状の内海を形成しています。
地図には、その内海に「江海」という文字が記されています。
どうやら、この辺り一帯の水田開発は、江戸時代終わりから近代にかけてであり、明治までは、外海から船が入ってきていたようです。
なるほど、であればその昔、この近くに皇船が繋がれたとしても不思議はないですよね。
事実、この平地部には、柁鼻(かじばな)・入江(いりえ)・柁取(かじとり)・浜首(はまくび)・大波(たいは)・沖(おき)といった海や港に関係すると思われる字名が多く残されているようです。
では、神社由書を見てみましょう。
境内入り口に建てられた説明板です。
【御祭神】
・鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
・彦五瀬尊(ひこいつせのみこと)
・神日本磐余彦尊(かむやまといはれひこのみこと)『神武天皇』
【合祀社】
・伊弉諾 伊弉冊尊
(いざなぎ いざなみのみこと)
・市杵島姫尊(いちきしまひめのみこと)
・柁神命(かじのかみのみこと)
・気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
『神功皇后』
・和気清麿(わけのきよまろ)
・大物主神(おうものぬしのかみ)
・顕仁尊(あきひとのみこと)
・火彦霊神(ほむすびのかみ)
・菅原神(すがわらのかみ)
・高龗尊(たかおかみのみこと)
【御由緒】
八幡総本社である宇佐神宮一帯は、神武天皇東遷の聖蹟とされ、椎根津彦命(しいねつひこのみこと(椎宮の御祭神))に先導された神武天皇一行はこの柁鼻の地に上陸された言われている。
「日本書記」によれば、宇佐の豪族 菟狭津彦(うさつひこ)菟狭津媛(うさつひめ)の御兄弟(妹)が天皇の御一行に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を建てて大御饗(おおみあえ(食事))を奉りお迎えしたと伝えられるのが、 此の宇佐の地である。
また、この時神武天皇の勅諚(ちょくじょう)により天種子命(あめのたねこのみこと(後 藤原氏))は菟狭津媛を妻としたことによって大和朝廷と宇佐との関係がより深くなる。
よって、この柁鼻の地に三柱の神を祀りお社を建てたのが柁鼻神社の始まりである。
八幡宮御祭神の神宮皇后は三韓出兵に際し、和間の浜において軍船を築造し、ここにて柁神(かじのかみ)を祀ると言われている。
また、勅使(ちょくし)・和気清麿(わけのきよまろ)公上陸の地とされ、東側に船繋石(ふなつなぎいし)の遺跡がある。
国道沿いに建つ一の鳥居と境内入り口
二の鳥居と参道
拝殿
通説では、祭神の鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)は彦五瀬尊(ひこいつせのみこと)と神日本磐余彦尊(かむやまといはれひこのみこと(神武天皇))の父神であり、要するに親子で祀られているといったところでしょうか。
鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)は、鵜戸神宮(宮崎県日南市)や宮崎神宮(宮崎市)の祭神としても有名ですよね。
百嶋神社考古学では、ウガヤフキアエズは西暦170年のお生まれで、鴨・玉依姫との間に安曇磯良(アツミノイソラ)をもうけています。神武天皇は西暦122年のお生まれですので、50歳ほど神武天皇が年上なのです。
また、彦五瀬尊(ひこいつせのみこと)は、神武天皇のお后であるアイラツ姫の兄であり、共に金山彦(=火彦霊神(ほむすびのかみ))の御子なのです。
ですから、彦五瀬尊(五瀬命(いつせのみこと))は神武天皇の義兄ということですね。
百嶋先生は神武東征は無かったが、ご巡幸はあったと話されています。
西暦165年頃のことで、神武天皇ご一行は東北地方まで訪れたそうです。
そのご巡幸には、義兄である彦五瀬尊も同行されたようです。
ご巡幸のコースとしては、宮崎県東臼杵郡諸塚村を通過し、熊本県上益城郡山都町に鎮座する幣立神宮(幣立神社)から二手に分かれ、南小国町で再び合流し、その後は九州西部を北上されたとのことです。
彦五瀬尊は神武天皇ご一行と別行動を取ったようで、竹田市に足跡を残されています。
大分県竹田市神原に鎮座する健男霜凝日子神社には、健男霜凝日子神(たけをしもごりひこのかみ)として彦五瀬尊が祀られています。
いずれにしても、神武天皇「東遷」とはやや違った感じがする、ご祭神の組み合わせなのですが、合祀されている柁神命(かじのかみのみこと)が何となく気になるところですね。
本殿が鎮座する素屋
素屋にかかる扁額の柁鼻の鼻の字が「自」ではなく
何故か「白」となっていましたが…
素屋の屋根には「上り藤に梶の葉」紋(あまり見かけませんが…)
素屋内に鎮座されている祭神と合祀神の社殿
鵜草葺不合尊、彦五瀬尊、神日本磐余彦尊の主祭神を祀る社殿
訪問したこの日、
当神社の宮司職を務められている元永氏から、とても丁寧な応対をしていただきました。
さらに、柁鼻神社の由緒が誌された資料も提供していただき、感謝、感謝です。
その資料は、宇佐神宮や庄屋和気家に伝わってきた古書の類いから抜粋したものを、元永氏がまとめられたものでした。
「神社創建と起源」と題された資料には、境内に建てられている説明板とは少し違った、より詳しい由緒が誌されていました。
【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/
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