ひとつあがりのカフェテラス
古代日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。
15.丹生の郷の神々③(大分市 屋山 八柱神社)
その昔、豊後・丹生郷には丹生都比売命(ニウツヒメノミコト)を祀る神社が三社、存在したと伝えられています。

「一の宮」は大分市宮河内 火振の「阿蘇社」、「二の宮」が大分市佐野の丹生神社,これらは既に紹介しましたね。
そして「三の宮」は定かではありませんが、大分市屋山に鎮座する「八柱神社」ではないか、と云われています。
境内入り口の鳥居と参道
神門
拝殿は千鳥破風唐破風付きの立派な造り
拝殿屋根に施されている神紋(七曜紋)
注連縄は両端が丁寧に、きちんと揃えられていました。
拝殿入り口の扁額
拝殿-申殿内
千木は外削ぎ、鰹木は奇数(3本)で男神を表しています。
見事な本殿の床組
社伝によると、当社の創建は承和11年(875年)とされていますが、天正14年(1586年)、薩州勢が豊後に侵入した際に社殿や宝庫、古文書などが焼かれてしまったため、創設当時の状況は詳らかでないようです。
現在の祭神は、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)のひとつ「神殿」にお祀りされている神々と同一とのことで、「神祇官八神(じんぎかんはっしん)」、「宮中八神(きゅうちゅうはっしん)」、「御巫八神(みかむなぎやはしらのかみ)」、「美保貴神(みほぎのかみ)」、「鎮魂八神(みたましづめやはしらのかみ)」などとよばれています。
「祭神」(Wikipedia参照)
高皇産靈神(タカミムスビノカミ)
神皇産靈神(カムミムスビノカミ)
魂留産靈神(タマツメムスビノカミ)
生産靈神(イクムスビノカミ)
足産靈神(タルムスビノカミ)
大宮賣神(オホミヤノメノカミ)
事代主神(コトシロヌシノカミ)
御膳神(ミケツカミ)
八柱神については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)「196 八島神社の衝撃 “山鹿市千田聖母宮摂社の八島神社”」で古川氏が解説されています。
始めの高皇産霊日神は高木大神、足皇産霊日神は不明、神皇産霊日神は博多の櫛田神社の大幡主、御食津神は伊勢の外宮の豊受大神、玉皇 産霊日神はもしかしたらヤタガラス=豊玉彦、事代主神は恵比寿、生皇産霊日神はもしかしたら生目=垂仁天皇?、大宮売神はもしかしたら金山彦?
となりますが、これ以上は良く分かりません。
ただ、どうも九州王朝を支えた神々が並べられているようで、九州王朝が滅ぼした神々には思えません。
少なくとも蹴破りによって茂賀浦が失われた際の八匹の亀に象徴される先住者の海人族の痕跡ではないようなのです。
これ以上の推測は無意味と言うより害悪になりますのでやめておきますが、最後に少しヒントになるものを発見した事からご紹介しておきます。
それは「熊本県神社誌」(上米良純臣編著)です。これには、「往古この辺は茂賀浦と称する一帯の湖であったが、神功皇后朝鮮出兵の途につき香椎の宮にます(ママ)頃奇瑞あり、ここに八神を祀り戦勝を祈願せられたと伝える。」とあるのです。
とすると、ここに祀られていた(いる)のは、近畿大和朝廷の前に九州王朝を支えた神々であり、その意味での敗惨した神々になりそうです。
そこで神域を見ていると、注連縄が緩んでおり祠の扉が多少開いていた事から開帳させて見せて頂いたところ、中には剣唐花の神紋の描かれた服を着た神像が鎮座されていたのです。
剣唐花は高良玉垂命の本当の神紋であり、現在の高良大社の裏紋でもある木瓜紋は本来のものではなく実は臣下である祇園社のそれなのです。
そこまで分かると、ようやく正面の千田聖母宮との関係が見えて来たのでした。

(古川氏ブログ「196 八島神社の衝撃 “山鹿市千田聖母宮摂社の八島神社”」から転載)
ここ、屋山地区は丹生川の支流「屋山川」に沿って南北に細長く続き、姫岳の裾まで奥深く切り入っています。
地形は起伏に富み、遠端である姫岳の裾野は屋山川の水源ともなっています。
そして、この屋山の奥深くに、八柱神社の元宮があったと伝えられています。
この八柱神社は私にとって、とても謎めいたお宮の一つでもあるのです。
まず、由緒のこと。
この元宮が鎮座していた場所について
郷土史「佐尉郷(さいのさと)」には、
昔は本殿はゴンの山の山中の巨岩の上にあり、拝殿が上床、加志場、加比母登(カヒモト)にあり、村人は谷川をへだてて拝殿から参拝していた
さらに、
八柱の神は遠州池田から飛来したという伝説があります
と、誌されています。
ここ八柱神社についてはよく分からないところもあったので、現宮司の杉崎氏や「海部古墳資料館」の館長さんで坂ノ市の郷土史に詳しい栗野氏にもいろいろとお訊きしたところです。
まず、元宮の鎮座地、「加比母登(カヒモト)」については、「屋山の奥」とされているものの、場所の特定はできませんでした。
屋山の奥は姫岳の裾野にあたるので、おそらく、その辺りなんだろうと思われますけど…。
それから、「八柱の神は遠州池田から飛来したという伝説」。
そもそも、「遠州」とは静岡県の西部、都市名で言えば、浜松・磐田・袋井・掛川・菊川・御前崎周辺のことで、地図を見ると天竜川から大井川を挟んだ地域のようですね。
ネットで調べると、浜松市に「八柱神社」がありました。
ただ、この社は江戸時代までは、八柱神社神官・袴田家の邸内に在って八王子寺社と呼ばれていたようで、どうも今ひとつ繋がらないような気がします。
さらに調べてみると、
磐田市池田地区に鎮座する「天白神社」なるものが見つかりました。
「遠州池田」と繋がりそうな予感…。
磐田市観光協会によると、
天白神社の起源は、奈良時代の女帝 孝謙天皇の頃。鎮守は猿田彦命(サルタヒコノミコト)です
ということです。
一見、当社とは繋がらないかな、と思ったのですが、よく調べてみると、境内社にしっかり祀られていました。
当社の境内社には祭神として、保食大神(ウケモチノオオカミ=宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ))と猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)が祀られていました。
実に興味深いです。
境内社「稲荷神社」
百嶋神社考古学では、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)は伊勢神宮外宮の主祭神、豊受大神のことであり、香春神社の主神である辛国息長大姫大目命(カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト=天鈿女命(アメノウヅメノミコト))と同一とされています。
そういえば、この天鈿女命は、前回紹介した丹生郷の一の宮「阿蘇社」の祭神としても祀られていましたね。
そして、猿田彦は山幸彦のことであり、豊受大神(=辛国息長大姫大目命=天鈿女命=宇迦之御魂神)とは夫婦神なのです。
スサノヲと神大市姫(=罔象女神(ミヅハノメ))の御子である豊受大神(=辛国息長大姫大目命=支那ツ姫=天鈿女命)は海幸彦(支那ツ彦=大年神=天児屋根)との結婚生活は短かったようですが、その後に結婚した山幸彦(=猿田彦)とは長く続いたとのことです。
百嶋先生の講演記録から豊受大神と猿田彦とのお話です(「肥後翁のblog」から転載)。
そして今度は、最後に丸、これは瀬高、ここ筑後、ここは筑後です。
何で筑後かというと、現在の伊勢の外宮、そして稲荷様の女神様のからくりです。
この方の名前、大姫、大目姫と名前をいくつも書いています。
大姫のとき、この人の最初の旦那さんは海幸彦です。
そこで、今度は名前を大目姫にお代えになった。
この時の旦那様は猿田彦です。
これが瀬高の女山の女の神様を猿田彦が道をふさいで、実は塞いだのではなく、どうぞご案内申し上げますといって、九州王朝のほうにご案内申し上げた。
(中略)
そして、大目姫はウズメノミコト、ウヅメ姫です。
アメノウズメノのミコトが猿田彦に邪魔されたと思いきや、さにあらず、御案内申し上げますといって案内された。
その最初の旦那、海幸彦、そして、次の旦那、山幸彦、その分岐点がこの筑後の国、瀬高です。
そういうような歴史を持っているけれども、極秘極秘の度合いが過ぎてさっぱりわからないようになっているのが、それが瀬高の女山です。
つまり、境内社の稲荷神社に、夫婦で祀られているということですね。
そして丹生都比売命(ニウツヒメノミコト)はスサノヲの姉、神俣姫のことですので、豊受大神は姪にあたることになるのでしたね。
その次に神紋。
この地は江戸時代、佐賀関や野津原などとともに肥後熊本藩の飛び地だったとのことで、その藩主、肥後細川氏は九曜紋を使っており、当社の神紋と何か、関連があるのかもしれませんね。
、家紋Worldの「名字と家紋」で「七曜紋」を調べてみますと、
北極星の周りを巡る北斗七星を象った七曜があり、北斗星紋ともいわれ日・月・火・水・木・金・土を表したもので 妙見信仰から生まれたものだ。このように、星=曜は天体を変わらぬ規則で巡る星への信仰を形とし、信仰心、とくに 武家では武神として崇敬、みずからの家紋として用いるようになった。
ということのようで、戦国時代に海の大名として名を馳せた九鬼氏、神社では兵庫県の名草(なぐさ)神社などが知られているようですね。
ただ、私が神紋で気になったのは、「剣花菱」紋なのです。
拝殿-申殿内にかけられている幕に、「剣花菱」が描かれていたのです。
杉崎宮司の話では、この紋は杉崎家の家紋とのことでした。
剣花菱紋は本殿の床下に保管されていた瓦にもありましたし、別の瓦には十六菊紋も見つけることができました。
さらに本殿は実に見事な彫り物で飾られているのですが、この横面にも剣花菱紋が施されていました。
杉崎家は天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祖とし、初代 重秀 氏が元久2年(1205年)に宮司職となってから、現在で24代目とのことです。
初代は、神社草創期から350年ほど経過していますね。
天児屋根命についてウィキペディアから引用しますと、
春日権現(かすがごんげん)、春日大明神とも呼ぶ。
岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。
天孫降臨の際、瓊瓊杵尊に随伴し、古事記には中臣連の祖となったとある。
名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる。
また、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の古川氏は、
これも百嶋神社考古学では明確で、この天児屋根命とは阿蘇の草部吉見神=ヒコヤイミミであり、それは、通説による表向きの解釈は確かにその通りなのですが、実はそれには大きな舞台裏があるのです。
まず、古代は母系制社会だったためか、有力な先住民族(氏族)への入婿として何波にも亘る外来(渡来)民族(氏族)の侵入を受け容れ、その有力者との政略結婚を繰り返してきたのです。
春日大神が何者かについても説明が必要ですが、奈良の春日大社とは藤原不比等が平城京移転に合わせ、自らの権勢を長らえるために、常陸の鹿島大社から剣豪 塚原卜伝が信奉した武甕槌神(実体は秘密に近く全く知られていませんが、阿蘇草部吉見神=ヒコヤイミミなのです)を勧請し自らの氏族の守護神=軍神とした のです。
これも、春日大神と天児屋根命を別神としていることが単なる神社伝承の混乱なのかそれとも裏事情を知っての事なのかが気になるところです。
何故ならば、奈良の春日大社の奥には水屋神社なるものがあり、草部吉見神の妃でもあった韓国息長大姫大目命を祀るなら分かるのですが、本当は、その母神である(父神はスサノウ)神大市姫=弥都波能売神(罔象女神)を祀っている事から、そのような裏事情を知ってのものとすることもできるのです。
(ひぼろぎ逍遥(跡宮)「172 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々の検証 ⑥天照宮(宮若市)」から転載)
と述べられています。
百嶋神社考古学では、天児屋根命とは海幸彦であり、支那ツ彦や大年神と同一なのです。
ただ、剣花菱紋との関係は不明でした。
神社横手の鳥居
幹線道路に面した神社入り口から、石段を登り詰めた境内は思いのほか広くて明るく、とても綺麗に整備されていました。
宮司夫妻も、とても気さくで、突然の訪問にも親切に対応していただきましたし、さらに家系図の写しまで拝見させていただくなど、恐縮至極でした。
思うに、当社は、丹生都姫の姪にあたる保食大神(=宇迦之御魂神=辛国息長大姫大目命=天鈿女命=豊受大神)が猿田彦大神(=山幸彦=彦火々出見=五十猛)とともに夫婦神として祀られている境内社が重要な意味を持っているのではないでしょうか。
それは、八柱の神々や剣花菱紋とともに、九州王朝との繋がりを暗示しているのかもしれませんね。
【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/
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