ひとつあがりのカフェテラス
古代日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。
22.【神武天皇伝承】椎根津彦神社(大分市佐賀関)と大和神社(奈良県天理市)②
大和神社の宮司職は代々、椎根津彦の末裔が務めてきたとのことです。
そしてそれは、明治の初めまで続いていたようです。
椎根津彦の末裔と言えば、
在野の神社考古学研究家である百嶋由一郎氏は、講演会の中で、このように話されています。
「出石(いずし)神社(兵庫県豊岡市出石町)の宮司は、市磯長尾市(いちしのながおち=真砂(まさご)=増御子(ますみこ))の子孫の長尾さんで、(祭神である)スサノオ(=天日槍(アメノヒボコ))をずうっとお護りし、1800年間、祀っていらっしゃる。」
市磯長尾市といえば、大和神社の由緒にも登場しています。
ウイキペディアでは、
『日本書紀』に伝わる古代日本の人物であり、倭直(倭氏)の遠祖である。
倭大国魂神(奈良県天理市の大和神社祭神)の起源譚で知られる。
『古事記』に記載はない。
さらに、
『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条によると、倭迹速神浅茅原目妙姫(倭迹迹日百襲姫命)・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君ら3人は同じ夢を見て、大物主神(のちの大神神社祭神)と倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にすると必ず天下太平になると夢告があったと天皇に奏上した。
そこで崇神天皇7年11月8日、夢告の通りに大田田根子と長尾市とに祀らせると、疫病は収まって国内は鎮まったという(垂仁天皇25年3月条の「一云」でも同様)。
また同書垂仁天皇3年3月条では、「一云」として、三輪君祖の大友主とともに新羅から渡来した新羅皇子の天日槍を尋問するため、播磨に行くよう天皇から命じられたとある。
なるほど、ここに市磯長尾市と天日槍(=スサノヲ)が登場しています。
「市磯」の名称については、大和国十市郡の地名(奈良県桜井市池之内付近)のようです。
その後、市磯長尾市の子孫がそのまま播磨に留まり、天日槍を奉斉した出石神社の宮司となられたようですね。
さらに百嶋氏は、
九州王朝神霊(神武、天照)東遷の大事業は椎根津彦を中心とした一団によって敢行されました。
神武は九州と奈良に、天照は九州と伊勢に安住の地を得られました。
その最後までご奉仕されたのは、椎根津彦の子、黒砂(いさご=倭姫)と真砂(まさご=市磯長尾市)でした。
とも述べられています。
考えを進めていくと、「日本大國魂大神」とは、単に神武、懿徳、孝霊、孝元と続く、呉の太白「姫氏」の系統である「正統皇統」のことではなく、もちろんのこと椎根津彦でもなく、「神武天皇」の神霊、そのものではないかとの思いが一層、強くなってきました。
そして、椎根津彦親子が、それら東遷(西暦228年頃)に大きく貢献したということなのでしょう。
それから、百嶋系図では、黒砂(いさご=倭姫)と真砂(まさご=市磯長尾市)は椎根津彦とウサツ姫(垂仁の妹)との子供とされています。
別の資料には「名目、垂仁の子」とも記されていました。
摂社 増御子(ますみこ)神社
祭神:市磯長尾市,猿田彦神,天鈿女命(あめのうずめ)
摂社 高龗(たかおかみ)神社
祭神:高龗神は百嶋系図では神沼河耳(大歳神の父)とされています。
高龗神社 本殿
末社 朝日神社 祭神:朝日豊明姫神
百嶋氏は、宮地嶽神社の祭神である(藤 高麿)勝村大明神は朝日豊盛ノ命
(あさひとよさかり)ではないかと考えておられるようでした。
朝日豊盛ノ命とこの朝日神社との関連が気になるところです。
末社 厳島(いつくしま)神社 祭神:市杵島姫命
末社 事代主神社 祭神:事代主神
地元の方達の話では、ずっと昔、早吸日女神社境内入り口に建つ鳥居から港方向の地域は海だったいうことです。
鳥居近くまで、波が打ち寄せていたのでしょう。
そして、この地区には「黒砂(いさご)」、「真砂(まさご)」という字名が今も残されています。
由緒ある地名や古くから伝わる伝承を大切にし、しっかりと後世に残していただいていることに感謝です。
地元の方達のお話では、鳥居近くまで海岸線が迫っていたいう。
この鳥居近くの和菓子店。
九州王朝と関係の深い木瓜紋(もっこうもん)に惹かれます。
特に、餅入りの方がお気に入りです。
【百嶋神社考古学に興味のある方は
古川清久氏のブログ「ひぼろぎ逍遥」をご覧ください。】
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