ひとつあがりのカフェテラス
古代日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。
26.夜明け前のスケッチブック② 「大元神社」(大分県宇佐市御許山)
宇佐神宮の奥宮にあたる御許(おもと)山「大元神社」。
【祭神】
比賣大神(ひめおほかみ)
┗多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)
┗市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)
┗多岐都比賣命(たきつひめのみこと)
宇佐神宮の縁起は複雑でいろいろな学説があるのですが、宇佐氏・辛島氏・大神氏の三氏族が宇佐神宮の成立に深く関係していたことは間違いないことなのでしょう。
「宇佐宮と辛島氏(生山和四郎 著)」によると、スサノオを始祖とする辛島氏が稲積山の頂上部に霊域を設けて北辰と三女神を奉祀したことに対し、ここ御許山に宇佐氏が三女神を祀ったとのことです。
さらに同書には、
筆者は、辛島氏が祖神とする三女神と守護神の北辰を「辛国宇豆高島」(稲積山)から、そして宇佐氏が同じく三女神と北辰を「馬城峰(まきみね)」(御許山)から亀山に移座して、両氏族の氏神が合祀された時を宇佐宮の起源とする。そしてその時から三女神を統べて一神体として比売大神と呼称するようになり、北辰は脇侍の神に退いたのではないかと考える。
と記述されています。
それから、当社は宇佐神宮の「奥宮」であって「元宮」ではないようなのですが、そのためか、「八幡神」は祀られていません。つまり「八幡神」は後からやって来ているのです。
百嶋氏は講演会でこのように話されています。
さて、宇佐神宮です。元々、宇佐とは八幡宮ではなく、宇佐神宮です。
元は応神天皇よりも宗像三姫君のほうが上なんです。今盛んに、第一宮(応神)、第二宮(三女神)、第三宮(神功皇后)といっているのは高木の大神の系統の連中が言っていたことをそのまま受け取って、えらく威張って応神が偉いように言ったことです。
そして、重要なことはそれぞれに後見人がついていらっしゃる。赤い真ん中の姫三神の後見人は同じ赤の北辰様(別名、天御中主、別名、白山姫)、応神天皇の後見人は海幸彦(ここでは春日大神)、一番右の神功皇后(ここでは神功となっているので神功でゆきます)の後見人は住吉です。
最初の住吉は別ですが、現在は住吉といえば開化天皇です。神功皇后は贈仲哀天皇のお妃であった時期はほんの僅かで神功があの世に行かれるまで、ダンナさまは開化天皇です。
そのことを一番的確に書き記しているのは那珂川町にある在るお宮さんです。神功皇后の年齢まで判る。天御中主神社。今でも神功の本当の神社がここ那珂川町に在って、それを少し、さば読んだのが大阪の住吉宮で、その中間に本物がある。瀬高町の玉垂宮です。そこに本物の本物がある、それは、開化天皇は五・七の桐です。神功皇后は五・三の桐です。
百嶋系図では、北辰は天御中主(アメノミナカヌシ)その人であり、別名、白山姫とも呼ばれています。なので、ここ御許山中腹にも白山神社が当然のように鎮座しているのです。
「宇佐宮と辛島氏(生山和四郎 著)」に記載されている亀山(亀山古墳)は宇佐神宮と同じ場所にあり、亀山古墳の石棺の所在地が宇佐神宮の本殿のようです。
亀山の頂上に、一之殿・二之殿・三之殿の神殿が建立されており、この二之殿と三之殿の下には石棺が埋まっている(「おおいたの古墳と神社(松尾則男 著)」)ということです。
また、宇佐家の口伝には「御量石(みはかりいし)」のことが伝わっているとのことです。この「御量石」は世の盛衰を占うというもので、石棺の蓋であり、二之殿の真下にあるということです。
宇佐神宮を頂点として位置する御許山と稲積山。
御許山から雲ヶ岳へと続くラインは、ストーンサークル(佐田京石)を擁する
米神山に繋がっている。
大元神社 拝殿
拝殿奥の「奥宮」と記された鳥居
鳥居の前には有刺鉄線が張られ、向こう側は禁足地となっています。
大元八坂神社の社殿
奥宮の左手奥に鎮座する水神
(一年中、涸れることなく流れる御神水「三鉢の水」)
境内入り口には御神木の大銀杏がどっしりと構え、聖域を見守ってくれています。
御許山・大元神社へは、日豊本線の西屋敷駅近くから林道を通って車でも登ることができるようですが、悪路であり、途中、危険な箇所もあるため、安心院と宇佐を結ぶ県道658号線から入っていくルートの方がお薦めです。
御許山の中腹に車を駐め、緩やかな登り道を30分ほど進むと、神社参道にたどり着きます。
境内は手入れが非常に行き届いていて、静寂さの中に、厳かで清々しい気が凜と張りつめています。
御許山と峰続きの雲ヶ岳(標高654m)
豊後高田市や周防灘が一望できる雲ヶ岳山頂
御許山中腹に鎮座する白山神社(祭神:白山姫)
白山神社拝殿
拝殿破風に飾られている「日負い鶴」紋と十六葉菊紋
「日負い鶴」を意識するかのような拝殿裏の神木
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