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ひとつあがりのカフェテラス

古代日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。

8.宇佐市安心院町の佐田神社③ 

 佐田神社の境内社として記載されている「巨鳥神社」。
 祭神、由緒は不詳。そして、神殿があるようにも書かれています。
 
 当初、明細帳を見た時に「鳥」の文字を「烏」と見間違えてしまいましたが、拡大鏡を使って良く良く見ると、やっぱり「鳥」でした。
 実際、佐田神社の本殿横には「小烏宮」がなるものが鎮座しており、これは豊玉彦(=建角身=豊国主=ヤタガラス)をお祀りしているものと考えられるからです。
 なぜなら、百嶋先生は佐田神社について、こうも述べられています(「肥後翁のblog」から転載)

 そして、さっき、佐田大神の話をしましたが、これが佐田大神ご生誕の地です。
 場所は現在、宇佐市佐田になっています。ここにはちゃっかりと大事な方がおられます。大事な方とは博多の豊玉彦です。
 豊玉彦とは、あくまでも豊の国に赴任された後のお名前です。博多においてのお名前は一応、いくつもありますが小若子(小さなな若子)、大若子(大きな若子)は大幡主(御父)、櫛田神社の神様です。
 これは非常に大事、ということは、あの隈の勢力が熊本からこちらに(博多の方に)、お移りになった時期が名前によって判るのです。筑紫の国を最初治めていた勢力、即ち現在の春日市の小高いところの、オグラとかいうところ、古墳公園のあるところ、あの地区を中心として長らく治めていた人たちと博多の櫛田神社の神様が繋がるかどうかがここで出てくるのです。或いは一族であったかもしれませんし、全く違う人であったかもしれません。
 ただ、隈(熊)本という地名を持ってきたのは博多の櫛田神社の神様大若子です。そして、それにくっついてきた既に成人しておられた小若子、これがヤタノカラスです。

 そして、佐田神社近くの神体山「米神山」の住所が安心院町「熊」なのです。
 
 つまり、この安心院盆地一帯は、妻垣神社近くの竜王山を中心として、白族(中国大陸の奥地の雲南省にいる白族=ペイツー=ペーホ―族)の流れを汲む大幡主(櫛田神社の主祭神)-豊玉彦父子の支配下にあったいうことなのでしょう。近くには白山神社(祭神・菊理媛神=白山姫=天之御中主)も鎮座されています。
 また、豊玉彦は祖母・アカル姫(=イワナガ姫)の弟になるので、佐田大神(=オオヤマクイ)にとっては大叔父に当たるようですね。

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 では、「巨鳥神社」とはいったい、どういう社なのでしょうか?
 
 この神社については、ネットなどで調べても、よく分かりませんでしたし、現宮司や氏子の方々、さらには安心院の歴史に詳しい「安心院縄文会」の会員の方にもお訊きしたのですが、結局、判らずじまいでした。
 
 神社の祭神は、その時々の社会情勢により入れ替わりがあったり、上書きなどを余儀なくされてきたため、創建当時の姿が今に残されているお宮は少ないようです。
 特に地方の古社などは、由緒なども次第にあやふやとなり、その輪郭もおぼろげとなって、終には歴史の上から消えてしまうのではないでしょうか。貴重な文化遺産を、何とか、後世に伝えていきたいですね。

 というところで、ふと、気づきました。
 巨鳥は「おおとり=」と読むのでは?
 
 であれば、東京都台東区に鎮座する「鷲神社(おおとりじんじゃ)」と関係があるのでは、と思い、ネットで調べると、鷲神社には天日鷲命(あめのひわしのみこと)が祀られているではないですか。
 なるほど、百嶋神社系図によると、天日鷲(=鳥子大神)は豊玉彦の御子(御母は杉山大神=天豊ツ姫=阿蘇ツ姫)でもあるので、やはり親族であるということが分かりました。ということは、明細帳に記されている社殿は小烏宮のことで、親子で祀られているということですね。

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 今回の、一連の調査では、佐田大神がこの佐田郷に鎮座する佐田神社でお生まれになったとする確証は得られませんでしたが、神社近くには、佐田大神の御父、大歳神(=海幸彦=大年=草部吉見=天児屋根)を祀る大年社や、御母の市杵島姫(イチキシマヒメ=スセリ姫=佐用姫)を祀った三女神社も鎮座していることなどから、状況証拠としては、かなり揃っているのでは、感じられました。
 「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」の古川氏は、市杵島姫がお産のために、アカル姫が滞在する安心院(妻垣神社)に帰り、母の元で佐田大神(=阿蘇国造=大直日)をお生みになったのだろうと話されていました。なるほど、母娘の深い情は今に通ずるものがありますね

 佐田大神について、百嶋先生は、こうも話されています(「肥後翁のblog」)

 そしてこの方は出世なさった後は、『比叡山の日吉大社、大山咋』、『同じく京都の松尾大社』、そして、出雲の『佐太神社=佐太大神』です。

 また、別の講演では、

 タクラマカン砂漠の端っこカシュガルの駅、胡氏、月氏、各豪族達はお互いにけんかをする。大きな勢力を持っていた大国主の朝鮮半島の勢力と、糸島で天皇家のご先祖をお守りしていたヘブライ軍団すなわち、金山彦軍団と、この両者が対立し、日本国中が大騒ぎとなった。
 その時のことを文章で読んでみます。
 素戔鳴みこと、やまたのおろちをえ賜いし時に、御子、天のフキネのみことをお使いとして、これをアマテラスオオミカミのもとにたてまつりたまいた・・・云々。
 天のフキネはわかりにくいが日枝山王権現(佐田大神)のことです。アマテラスの元に奉ったものは金山彦のうった剣です。やまたのおろち退治とは、両者の豪族が争いを止めたことを示したものです。
 この天のフキネのみことが島根県の佐太神社の佐太大神、しかし、お生まれは宇佐市佐田で、次に佐賀の小城、そして朝倉市の佐田村、ここで佐田大神と鴨玉依姫とのロマンスが発生した。筑前山家にある宝満宮または竃戸神社にその痕跡をとどめている。
 
とも、お話しになっています。  

 本殿横に鎮座する小烏宮
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   境内に鎮座している稲荷社
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 稲荷社の祠には過去、合祀されたと思われる扁額が祀られていました。
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 亀の台座に「郷社佐田神社」と彫られた社号標
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 境内に鎮座する石祠群
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 中央の石祠には花菱の紋が描かれていました。
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 境内に鎮座する4基の板
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 両部鳥居と参道
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 神楽殿
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 神社横手の鳥居
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【お知らせ
 「大分神代史研究会(仮称)」の設立を計画しています!
  ★主な活動内容
   ・フィールドワーク:大分を主体にした神社調査
   ・デスクワーク  :百嶋神社考古学に基づく神代史勉強会
  ★監修並びに特別講師:久留米地名研究会(神社考古学研究班) 
                        古川 清久 氏 
   
 【興味のある方は是非、ご連絡ください。】
   E-mail : nanasegawa.hiro@gmail.com

 【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
   ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/

Posted on 2016/09/19 Mon. 22:03 [edit]

category: 日記・古代史

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