ひとつあがりのカフェテラス
古代日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。
14.丹生の郷の神々②(大分市 宮河内 火振 阿蘇社)
大分の隠れた黄葉スポットの1つなのです。
今年の燃えあがりようはいかがなものかと先日、訪ねてみましたが、気温が比較的高かった日が多かったためか、イチョウの木々の葉には緑色の部分もチラホラで、今ひとつの染まり具合でした。
ただ、新嘗祭が執り行われる日に当たっていたようで、思いがけず、厳かな神事に立ち会うことができました。
当神社は丹生郷の「一の宮」。
その昔、豊後・丹生郷には丹生都比売命(ニウツヒメノミコト)を祀る神社が3社存在したと伝えられています。
当社はその「一の宮」と考えられていて、「二の宮」が丹生神社,「三の宮」は定かではありませんが、近くの屋山に鎮座する八柱神社、あるいは日吉神社ではないか、と云われています。
応永元年(1394年)、大友十代当主親世公が家臣に命じ、阿蘇神社の祭神を迎え、一の宮、二の宮、三の宮を造営。
さらに、「二の宮」の丹生神社では丹生大明神と合祀し「丹生二ノ宮大明神」として祀ったとのことで、この折、当社にも阿蘇神社の祭神が勧請されたようです。
また、当社の元宮は、ここ火振の地から1㎞ほど離れた阿蘇入(にゅう)地区に鎮座されていたとも伝えられています。
阿蘇入の「入(にゅう)」については丹生が転じたもので、以前は「阿蘇丹生」、あるいは単に「丹生神社」と呼ばれていたのかもしれませんね。
神社明細帳によると当社の祭神は、健磐龍命(タケイワタツノミコト)、天鈿女命(アメノウズメノミコト)、大雷神、菅原神の4柱。
伝えられているとおり、健磐龍命と天鈿女命の2神は阿蘇入に鎮座されていたと記されています。
また、大雷神と菅原神は近くに祀られていたものを、明治18年に、先の2神とともに、この火振の地に合祀されたようです。
氏子総代さんの案内で、素屋の中に鎮座する本殿や本殿の修復時に発見された棟札なども拝見さていただきました。
拝殿と本殿が鎮座する「素屋」
「丸に違い鷹の羽」の神紋
拝殿に掲げられている神額には「一宮大明神」の文字
「素屋」内に鎮座する本殿
風雨や日射しに晒されていないためか、未だ鮮やかな本殿の彫り物
本殿屋根(千木は外削ぎ(男神)でしたが、鰹木は2本で偶数(女神)でした)
健磐龍命(タケイワタツノミコト=手研耳(タケシミミ))は肥後国一宮「阿蘇神社」の主祭神として有名ですよね。
百嶋系図では、神沼河耳(=高龗神(タカオカミノカミ)=(贈)綏靖天皇)とカマチ姫(=アイラツ姫=神武天皇の后であったが、後に多氏の神沼河耳と通婚)との御子となっています。
また、天鈿女命(アメノウズメノミコト)については、ウイキペディアによると、
日本神話に登場する神。「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。
『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する
と記載されいますが、
百嶋系図では天鈿女命は、
前回、丹生の郷の「二の宮」として紹介した「丹生神社」の主祭神、罔象賣神(ミヅハノメノカミ=神大市姫)とスサノヲとの御子である辛国息長大姫大目命(カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト=福岡県田川郡香春町の主祭神=豊受大神(伊勢神宮外宮様))のこととされています。
先の丹生神社で境内社「稲荷社」の祭神として祀られている宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)とも同一神です。
そして、丹生の郷の守護神、丹生都比売命(ニウツヒメノミコト)とはスサノヲの姉である神俣姫のこととされています。
この神俣姫(=闇龗神(クラオカミ))は、多氏一族の神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト=高龗神(タカオカミ)=(贈)綏靖天皇)と通婚し、草部吉見(=天忍穂耳尊=天児屋根=大年神=支那ツ彦=海幸彦)をお生みになられています。
つまり、天鈿女命(=豊受大神=辛国息長大姫大目命=宇迦之御魂神=支那ツ姫)の母神が罔象賣神(ミヅハノメノカミ=神大市姫)であり、伯母に当たられる神が丹生都比売命(=神俣姫)なのです。
当時は政略結婚が盛んで、その都度、御名前も替えられていたようですね。
そのためか、神々の系図はジグソーパズルのように複雑なものになっていますねぇ。
当社の元宮は阿蘇入地区入り口の山肌に張り付くように鎮座されていました。
元社の山すそは「迫阿蘇入」と呼ばれていて、一帯には勾玉や金の指輪、そして刀剣などが出土した横穴古墳が数多く見つかっています。
平成27年に発行された「ふるさと川添の郷土史」によると、この地域には古墳が20基ほどあるそうで、1700年前に豪族が住んでいたと思われると述べていますねぇ。
山肌に張り付くように鎮座する阿蘇元社
今なお、地区の人々に大切に祀られているようですね。
そして近くには「阿蘇入(あそにゅう)神社」が鎮座していました。
「阿蘇入神社」は小高い山の中、迫り来る新興住宅地を避けるように、住宅地の縁の「迫ノ平」にひっそりと佇んでいました。
社殿は西を向き、その正面にはきちんとした参道も無く、住宅地からの細い参道が社殿後ろに通されているだけでした。
そのせいか、元宮は何となくそっぽを向いているように感じられ、正面の林からは大野川の川岸が途切れ途切れに見通せるのみで一見して寂しそうでしたが、境内や社殿内はよく手入れされていて、地区の人々から大切に祀られている様子をうかがい知ることができました。
この阿蘇入神社には、金刀比羅社として大物主命(=大山咋(おおやまくい))、そして今宮社として事代主命がそれぞれ、祀られていました。
住宅地から社殿に向かう参道
何となく、「敬神崇祖」という言葉が浮かんできました。
両社とも、長い間、村人に大切に護られ、そして丁寧に祀られ続けられてきたことに清々しい感動を覚えた次第です。
ゆっくりと朝日に照らし出される丹生郷宮河内の山々
【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/
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