ひとつあがりのカフェテラス
古代日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。
16.【神武天皇伝承】早吸日女神社①(大分市佐賀関)
古代、海部郡がおかれた国は紀伊、尾張、隠岐と豊後の四つのみだったそうですね。
それはもちろん、海産物が豊かで漁民が中心だったということもあったのでしょうが、それ以上に、何よりも海上交通の要の地だったのでしょう。
そして、この要衝の地を支配していた海部(あま:海人)とは、水上交通の技術者集団であり、当然ながら、長い航海術にも長けていたことは容易に想像できますね。
大分市佐賀関は佐賀関半島に立地し、律令制下では海部郡佐加(さか)郷に属していました。
そして半島の地頸部に天然の良港を擁していたため、早くから漁業と海運業の町として栄えてきたようです。
大分市から東進する国道には愛媛街道の名があり、かっては関(せき)往還と呼ばれて府内城下と関を結び、さらに関からは海路伊予に通じる道として重要視されてきたようです。
江戸時代、町域は熊本藩(細川氏)の飛び地であったとのことで、藩主の参勤の行路として小倉経由の豊前路と交互に、この街道が使われたようですね。
旧佐賀関町関崎と愛媛県伊方町(旧三崎町)の佐田岬によって挟まれる豊予海峡(ほうよかいきょう)は速吸瀬戸(はやすいのせと)とも呼ばれ、幅約 13kmで、瀬戸内海と豊後水道を上下する潮流が激しく流れています。
さらに、海底も複雑で、佐田岬と佐賀関を結ぶ線上には、馬の背のような尾根(海底山脈)が走っていて、水深60mから100mの浅い瀬が連なっているということです。
とにかくも航行の難所であることに違いはないでしょう。
因みに、この海峡は好漁場としても知られいて、佐賀関港に水揚げされるアジとサバは、速い潮流により、身が引き締まり脂ものっており、「関あじ」、「関さば」として全国的に名を馳せています。
豊予海峡を航行する貨物船
(手前が関崎で左手奥が佐田岬。右手の島は高島)
そして、この速吸瀬戸にも神武天皇の東征にまつわる伝承が残されています。
ウィキペディアからの引用です。
『古事記』や『日本書紀』においては、神武天皇が東征の途上で速吸門を通ったときに、国つ神の椎根津彦が現れて航路を案内したとの記載があり、この速吸門が豊予海峡のことであると考えられている。
ただし、『日本書紀』では経路に地理的整合性があるものの、『古事記』では九州を出て吉備国の高島宮に滞在した後に速吸門を通ったとされており、整合性を欠く。
佐賀関には椎根津彦をまつる椎根津彦神社が残っている。
同じく佐賀関に鎮座する「早吸日女(はやすひめ)神社」の由緒にも、また、神武東征の伝承が色濃く残されています。
再び、ウィキペディアからの引用です。
神社の縁起によれば、紀元前667年に、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと、後の神武天皇)が東征の途中で速吸の瀬戸(豊予海峡)を通りかかった折りに、海女の姉妹の黒砂(いさご)・真砂(まさご)の二神が、潮の流れを静めるために海底から大蛸が護っていた神剣を取り上げて神日本磐余彦尊に奉献したところ、神日本磐余彦尊自らがこの剣を御神体として、祓戸(はらへど)の神(速吸日女)を奉り、建国を請願したのが始まりであるとされる。
その後、大宝元年(701年)に現在の場所に遷座。
慶長5年(1600年)には戦火によって社殿を焼失したが、熊本藩の所領となり、慶長7年(1602年)に加藤清正によって再建され、その後も歴代熊本藩主細川氏によって造営された。2004年3月には、本殿、総門、社家が大分県の有形文化財に指定されている。
長い間神剣を守護していたタコは神社の眷族とされており、仕える神職は一切口にしない。
現在でも参拝者の心願成就を書き入れたタコの絵を奉納し「タコ絶ち祈願」が行われている。
(中略)
拝殿の屋根はこの地方独特の瓦技法を伝える屋根で、浦島太郎や三重塔などのユニークな瓦が乗っている。
一の台輪鳥居
総門(八脚門)
参道の鳥居:右手前は手水舎,左は社務所
拝殿:千鳥破風の下に龍の鬼瓦付きの唐破風が付けられるという超豪華な造り
拝殿屋根の浦島太郎
拝殿屋根の竜宮城
拝殿屋根の迫力ある装飾
拝殿:双龍の彫刻
拝殿の扁額
拝殿・申殿内:神紋は下がり藤
拝殿内に奉納されている多くの蛸の絵
:ご神体として奉斉されている神剣は蛸が長い間、速吸の瀬戸で守護していたことに因み、
「蛸の絵」を奉斉して一定期間、蛸を食べずに願い事をすると必ず成就するといわれて
いる(蛸断ち祈願)。
本殿:内削ぎ、外削ぎが交差した珍しい千木
「祭神」
・八十枉津日神(やそまがつひのかみ)
・大直日神(おほなほひのかみ)
・底筒男神(そこつつのをのかみ)
・中筒男神(なかつつのをのかみ)
・表筒男神(うはつつのをのかみ)
・大地海原諸神(おほとこうなはらもろもろのかみ)
まず、ウイキペディアで八十枉津日神を見てみましょう。
禍津日神(まがつひのかみ、まがついのかみ)は神道の神である。
禍(マガ)は災厄、ツは「の」、ヒは神霊の意味であるので、マガツヒは災厄の神という意味になる。
神産みで、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに生まれた神で、『古事記』では八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おほまがつひのかみ)の二神、『日本書紀』第五段第六の一書では八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と枉津日神(まがつひのかみ)としている。
これらの神は黄泉の穢れから生まれた神で、災厄を司る神とされている。
(中略)
また、本居宣長は、禍津日神を祓戸神の一柱である瀬織津比売神(せおりつひめ)と同神としている。
ということで、祓戸大神(はらえどのおおかみ)の中の1柱ということのようですね。
さらに、この祓戸大神についてウイキペディアは
『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。
これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。
瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う
と解説されています。
この祓戸四神については、百嶋系図にも誌されていました。
つまり、八十枉津日と瀬織津比売とは同神ということでしょうか。
そして、瀬織津比売は櫛稲田姫(くしなだひめ)のこととしています。
政略結婚が盛んだった古代ではその都度、名前も替えるため、実に複雑な系図になっていますねぇ。
百嶋系図では、祓戸神である瀬織津姫と出雲神話でスサノヲの妻になられた櫛稲田姫、そして「山城国風土記」に出てくる 丹波の姫こと伊賀古夜姫命(イカコヤヒメ)は同一神なのです。
櫛稲田姫はスサノヲと別れた後、豊玉彦と通婚し、御名前をイカコヤヒメと替えているのです。
そして御子、鴨玉依姫(=神直日)をもうけられました。
当社の祭神として祀られている大直日神(おほなほひのかみ)は、この鴨玉依姫(=神直日)と夫婦神であり、宇佐市安心院の佐田神社でお生まれになった佐田大神(=大山咋神(おおやまくいのかみ))のこととされています(ブログ6~8「宇佐市安心院町の佐田神社」参照)。
百嶋神社考古学では、櫛稲田姫(くしなだひめ)は父神が瀛(いん)氏の金山彦、そして母神が大幡主(博多・櫛田神社の主祭神で白族)の妹である埴安姫(はにやすひめ)とされています。
先日、私も櫛稲田姫がお生まれになったと伝えられる山鹿市の神社に、ひぼろぎ逍遥の古川氏らとともに調査に行って参りました。
そこには、金山彦命(かなやまひこのみこと)と埴安姫命(はにやすひめのみこと)が共に祀られていましたし、モーゼ由来の十字剣(円天角地に十字剣)の紋章の神紋にも巡り会うことができました(金山彦はヘブライ系の瀛(えい又は、いん)氏であり、モーゼの直系。秦の始皇帝との縁組が許され、始皇帝と同じ嬴(いん)の文字を使うことが許可されたそうです。さらに海を渡り日本列島にやって来たため、嬴の文字に「氵(さんずい)」が加わり、「瀛」となったとのことです。)
そして、その地域には、今なお、「稲田」の文字が付く地名がわずかながら残されていました。
これらの事実は、どういうことなのでしょうか?
出雲の神話とはいったい、何だったのでしょうか?
ざらついた疑問がふつふつと胸の内を突いてきます。
こういう時にはパイプを取り出して、久しぶりにブルーノートでも燻らしますか…。
と、何かが、閃きました。
確か、早吸日女神社近くの交差点に「金山」の標識があったはずです。
地図で確認すると、やはりありました。
半島がきゅっとくびれる直前の場所。
近くには、早吸日女神社が創建時に鎮座していた伝えられている「古宮」もありました。
早速、郷土史で調べると、当地は古くから鉱山(銅山)があったとのことで、鉱山の鎮守として金剛山明神祠(祭神 金山彦神・金山姫神(おそらく埴安姫命))が鎮座されていたようですが、慶長5年(1600年)の佐賀関合戦(竹田の中川勢と臼杵の太田勢との合戦)のとき兵火にかかり焼失した(佐賀関街道・関往還)そうです。
また、その時、早吸日女神社の社殿・宝物も一切が焼失した(佐賀関町史)とのことで、非常に残念なことですね。
現在、この町には銅製錬業の日鉱製錬(株)・佐賀関製錬所の200mの巨大煙突が聳えていますが、早くから採銅所として栄えていたのでしょうか。
近くの遠見山の「幸ノ浦遺跡」からは石棺と古式土師器の破片が出土しており、それらは4~5世紀のものと推定されているようですし、同じく遠見山の南麓からは中広銅矛(弥生時代中期から後期前半ごろのものと比定)も発見されています(佐賀関町史)。
金山彦神(=加具土(かぐつち)=事解男(ことあきお)=気吹戸主(いぶきどぬし))は、九州王朝第1期親衛隊長として神武天皇をお護りしていたようですが、その一方で、優秀な鉱山技師でもあったようです。
百嶋系図では金山彦神は西暦106年に、そして埴安姫命(=金山姫神)は西暦113年にお生まれになっていますが、ご夫婦で当地に赴任されていたのかもしれませんね。
そうであれば、八十枉津日(=瀬織津比売=櫛稲田姫)を祭神とする早吸日女神社の前身である元宮が、金山彦神をお祀りする金剛山明神祠の近くに鎮座していたことは、何となく、納得できます。
では、祭神に戻りましょう。
底筒男神(そこつつのをのかみ)、中筒男神(なかつつのをのかみ)、表筒男神(うはつつのをのかみ)は住吉三神と呼ばれているもので、これについては、ひぼろぎ逍遥「155 百嶋神社考古学では住吉三神をどう考えるか」で詳しく考察されています。
要するに、
底筒男命 開化天皇(1775) 久留米高良大社の祭神=高良玉垂命
中筒男命 (贈)崇神天皇(1805) ツヌガノアラシト(大山咋命の子)
表筒男命 安曇磯良(1815) 大川風浪宮の祭神
であり、当然、底筒男命が最上格であり、残りの二神は臣下だったようです。
境内社:伊邪那岐社(伊邪那岐神):屋根にはチタニウム板が用いられている
境内社:神明社(天照皇大神)
境内社 左:生土社(埴安神)、相殿社(健磐龍神・武内宿禰神)
右:木本社(椎根津彦神)
境内社:歳神社(大年神、御年神),天然社(醍醐天皇),若御子社(黒砂神・真砂神)
境内社:天満社(菅原道真公)
境内社:稲荷社(保食神)
境内社:神楽殿
神幸殿
奥行きのある境内は非常によく手入れされており、ゆるやかな参道を奥へと進むと、迫力ある拝殿がどっしりと鎮座されています。
さすが、式内社の威厳と風格でしょうか。
本殿は貴婦人のように、一際、美しく輝いています。
百嶋神社考古学では、神武天皇東征の伝承は神日本磐余彦尊ご自身ではなく、(贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦)のエピソードであるとされています。
ただ、神武天皇による御巡幸(西暦165年頃)はあったようで、コースとしては、西九州を北上し、東北地方まで訪れているようです。
百嶋系図では、早吸日女神社の由緒にも登場する椎根津彦(=倭彦)は(贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦)の弟神に当たるようですね。
そして椎根津彦の御子として、黒砂(いさご=倭姫)と真砂(まさご)の姉妹神がおられるようです。
神社の祭神は、必ず実在した人物であったと、私は考えています。
何故なら、そこに神社があり、伝承が残されているからです。
良く考えれば、解ることだと思うのですが、架空のものに対し、我々は社や祠を用意するなどして、お祀りなどしないのではないでしょうか。
話を早吸日女神社にもどしましょう。
当社の由緒によると、西暦701年(大宝元年)に、御神慮により古宮から遷座したと誌されています。
通常、元宮から遷座する場合は、「参拝するのに不便」とか、「道路の拡幅」や「建物の新設」などといった、極めて人間的な理由によるものが多いようですね。
なので、「遷座」、そのものついては珍しいことではないと思っています。
ですが、この時代、特に大宝元年に何故、遷座する必要があったのか。
何か、腑に落ちませんねぇ。
この「神慮」とはいったい、何を意味するのでしょうか。
ここに百嶋先生の資料の一部に手書きのメモが遺されています。
そこには、「林」の原点は大分市の「早吸」と書かれています。
何か、謎めいていますが、またまた、難問みたいですねぇ。
ですが、ここのところをボチボチと考えてみたいと思っています。
古代史の謎解きは、やっぱり、興味が尽きませんね。
TB: -- CM: 0
22
« 17.【神武天皇伝承】早吸日女神社②(大分市佐賀関) | 15.丹生の郷の神々③(大分市 屋山 八柱神社) »
コメント
Comment
list
コメントの投稿
Comment
form
| h o m e |