ひとつあがりのカフェテラス
古代日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています。
6.宇佐市安心院町の佐田神社①
九州の別府から小倉方向に向かって約四十分ばかり汽車で行くと、宇佐という駅に着く。宇佐神宮があるので有名な町だ。
この宇佐駅からさらに北へ向かって三つ目に豊前善光寺という駅がある。そこから南のほう、つまり山岳地帯に支線が岐(わか)れていて四日市という町まで行っている。この辺は山に囲まれた所で、さらに南に行けば、九州アルプスの名前で通っている久住(くじゅう)高原に至る。四日市の駅で降りると、バスは山路の峠を走るが、その峠を越すと山峡が俄かに展けて一望の盆地となる。早春の頃だと、朝晩、盆地にも靄(もや)が立籠め、墨絵のような美しい景色となる。
ここの地名は安心院と書いて「あじむ」と読ませる。正確には大分県宇佐郡安心院町(現宇佐市安心院町)である。(松本清張「陸行水行」)
松本清張の『陸行水行』は、このような書き出しで始まるのですが、豊前善光寺から南への鉄道とは大分交通豊州線のことで、昭和28年(1953年)まで運行されていたようですね。
小説に倣って宇佐から安心院を目指してみましょう。
宇佐平野を南北に貫く駅館(やっかん)川に沿って南に進んで行くと、やがて国道は山あいの道へと変わっていきます。そして山々の裾を縫うように、しばらく車を走らせると安心院盆地への入り口が見えてくるのです。盆地への入り口から続く、ゆるやかな峠を登り上がり、短めのトンネルを過ぎて少し下ると、不意に画面が切り替わるように、小ぢんまりと、そしてどことなく神秘的な盆地が現れてきます。
盆地へと下り降り、やや大きめの橋を渡って交差点を左に折れ、東九州自動車道をくぐった辺りから、蛇行した佐田川に沿って進んで行くと佐田郷にたどり着きます。
ここ、佐田郷は安心院盆地の東部に位置し豊前と豊後の別府を結ぶ街道にあって、豊前側の最初の宿場町として江戸時代には随分と栄えていたようです。ただ、今は往時の面影はなく、ひっそりと山あいの町として静かな佇まいを見せているだけです。
しかしながら佐田は、神々しい巨石遺蹟の町として、国内でも有名な地域の一つなのです。そのあたりの説明を「安心院町誌」から拾ってみましょう。
弥生時代に入って農耕生活をするようになると、従来の原始信仰たる魔の概念と、死霊の恐怖を中心としたものに加えて、農耕儀礼としての穀霊信仰ともいうべき形態となる。佐田にある米神(こめかみ)山中腹七、八合目の俗称月の神谷、日の神谷に碁布して林立する約百基の天然立石群と、その麓の佐田の京石と𧦅われている環状石籬または双立立石群は、米神山巨石遺蹟として注目すべきものである。米神は穀物神保食神であろう。米神山とその周辺地区には神関係の口碑伝説が非常に多い。米神山は太古米が降ったとか、山そのものが神であるとか、…(略)
米神山の巨石は自然のものだが、京石は全く人工によって建てられたものであることは一見してわかる。米神山遺蹟を学会に紹介したのは南善吉である。
(中略)
「佐田付近の遺蹟はシャーマン教の範囲内にある蒙古ブリヤードの信仰状態が濃厚に認められ、日本原始神道研究上重大なる意義があり、学術的に興味深い。そして民族移動の面からも注目され得る。(略)遺蹟成立の時代は金石併用時代頃で、原日本人即ち弥生式土器使用系統の民族によってなされたもので、農耕時代に入っており、成立の時代は可成長きに渉り、紀元前後に及び今から約二千年前のものと推定する。」
とある。
なるほど、この地域一帯の巨石遺蹟には蒙古系民族の影響が色濃く残されているということ、それから、成立した時代は約二千年前ということのようですね。
米神山の麓に鎮座する「佐田の京石」
佐田郷入り口の畑の中に、こんもりと盛られたような台地があり、その台地の上の背高い木々に囲まれて、佐田神社は鎮座しています。台地の傍に降り立つと、向かい合うように米神山を臨むことができます。
佐田神社側から臨む米神山
一の鳥居と参道
境内入り口の二の鳥居(弘化2年(1845)に建てられた両部鳥居)
ここ佐田神社について、百嶋氏は実に興味深いお話をされています。
講演記録を「肥後翁のblog」から転載させていただきますと…
次はデスね、これが大事なんです。こんなことを言うたら怒る。プリプリ怒る人がいます。伏見稲荷のご祭神に『佐田彦大神』というのがあります。ここで皆さんだまされないように『佐田大神』と『佐田彦(猿田彦)大神』は違うのです。というのはですね、出雲の国の佐田大神は現在では猿田彦に変わっているのです。これは間違っているのです。佐田大神と佐田彦大神を間違えているのです。佐田彦大神といったら猿田彦です。佐田大神は佐田で彦はないのです。
佐田大神は、誰の事かといいますと、宇佐の佐田村でお生まれになったから佐田なのです。その方が、佐田の地名をもって、朝倉郡佐田村(現在の朝倉市)に転勤してこられた。その方が最も出世なさったお姿の神社が出雲の佐田大社です。以前は大社だったんですよ。出雲の三大大社、出雲熊野大社、出雲大社、出雲佐田大社だったんです。そしてこの方が何でそこまで出世なさったかというと、スサノオのミコトが暴れられて、アマテラスを困らせられました。それで周囲から反発を食らいまして、スサノヲはそれを後悔して、天のムラクモノ剣を打って、それをアマテラスに献上なさいました。その献上の使者となったのが佐田大神です。その時は、まだ若い青年でした。この功績で佐田大神となったのです。
ところが、出雲佐田大社は大社から格下げされてしまいました。その理由は、佐田大神(こちら福岡・熊本では大山クイの神といいます)の長男坊主がこともあろうに熊襲とタイアップして神功皇后に喧嘩を仕掛けたのです。それで、息子の馬鹿騒ぎによって大神の大を消されたのです。それで出雲の佐太神社となったのです。挙句の果てに、猿田彦大神に勘違いされています。
つまり、佐田大神(=大山咋(オオヤマクイ)=大直日)は、海幸彦(=大年神=草部吉見=天児屋根)と市杵島姫(イチキシマヒメ=スセリ姫=佐用姫)の御子であり、ここ佐田の地でお生まれになったとのことです。
また、以前にも書きましたが、百嶋神社考古学では市杵島姫の御母はアカル姫(=イワナガ姫)であり、御父はスサノヲ(=天日槍)でしたね。
では、佐田神社とは、どういった社なのでしょうか。
また、佐田大神(=大山咋(オオヤマクイ))との関係は?
そういったところを中心にチョコチョコと調べていきたいですね。
【お知らせ】
「大分神代史研究会(仮称)」の設立を計画しています!
★主な活動内容
・フィールドワーク:大分を主体にした神社調査
・デスクワーク :百嶋神社考古学に基づく神代史勉強会
★監修並びに特別講師:久留米地名研究会(神社考古学研究班)
古川 清久 氏
【興味のある方は是非、ご連絡ください。】
E-mail : nanasegawa.hiro@gmail.com
【百嶋神社考古学に興味のある方は古川清久氏のブログへ】
ひぼろぎ逍遥 : http://ameblo.jp/hiborogi-blog/
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