祭神について、当神社HPには、「比咩大神こと玉依姫命は、海神豊玉彦命を父にもち、姉は豊玉姫命とされる。豊玉姫命の子、鵜葺草葺不合命を育て、後に妻となり、のちの初代天皇となる神武天皇を産み育てられた神である。」と記載されています。
百嶋神社考古学では、この地を訪れ、宇佐国造の祖であるウサツヒコ・ウサツヒメ兄妹からの饗応を受けた命は神武天皇ではなく、藤原氏らによって第10代天皇としての諡号を贈られた、(贈)崇神天皇(ハツクニシラス=ミマキ入彦=中筒男)としています。
系図1
とすれば、系図1に示しているように、母君は(鴨)玉依姫ということになりますね。
系図2
そして、(鴨)玉依姫は系図2のとおり、豊玉彦とイカコヤヒメ(スサノヲと離婚した後の櫛稲田姫)の子供であり、豊玉姫は豊玉彦と豊秋ツ姫の子供となっています。
なるほど、神社HPの由緒にも玉依姫と豊玉姫は姉妹と書かれてますね。ただし、母君が違っていたということでしょうか。
それから大事なことですが、祭神の比咩大神が、今回の主役であるアカル姫(イワナガ媛)なのです。
アカル姫はについて、Wikipediaの記述を見てみましょう。
阿加流比売神(あかるひめのかみ)は、日本神話に登場する、日の出の太陽を表す赤い瑪瑙の玉の化身とされる女神である。 『古事記』では新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となっている。
『日本書紀』では名前の記述がないが、意富加羅国王の子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が追いかける童女のエピソードと同一である。『記紀』で国や夫や女の名は異なっているが、両者の説話の内容は大変似通っている。
再度、系図2を確認していただきたいのですが、アカル姫は豊玉彦と姉弟で、ともに大幡主(博多・櫛田神社の祭神)の子供とされています。
そして、大幡主の一族には白族(ペー族=自称: ペーホー Baipho)と記されていますね。この白族とは中国雲南省大理ペー族自治州を中心に住む民族のことで、米を主食にしたりワサビを食用にするなど、日本人と共通する文化が見られるようです(Wikipedia)。
未婚女性が頭に巻き付ける白い羽根飾りが特徴的で、これが民族名の由来となっているようで、アカル姫もこの白族の血を受け継いでいたのでしょうね。
アカル姫が日本に渡ってきたルートについては朝鮮半島から但馬国(兵庫県)を経由し、そして大分県は国東半島近くの姫島に入られたとのことです。その後、国東半島を経て大分の奥地へと進み、ここ安心院の妻垣にやってこられたと百嶋先生はお話しなさっています。
そして、夫である天日槍(あめのひぼこ=スサノヲ)もアカル姫の後を追うように新羅から日本に渡ってきたとのことでした。
ここ妻垣神社の周辺には、宗像三女神をお祀りする「三女神社」や幕末に境内で大砲が鋳造されたことで知られる「佐田神社」が鎮座しています。
先に紹介した、この妻垣神社が鎮座する共鑰山(ともかぎやま)の隣、「龍王山」に鎮座する「海神社(かいじんじゃ)」を含め、いずれの神社も安心院盆地の周辺部の、道路から駆け登ったような位置に鎮座されています。この地を静かに見守っているかのようですね。
安心院盆地を見守る
共鑰山(向かって左)と龍王山
系図3
それから、アカル姫の御母についてですが、百嶋神社考古学では、イザナミはイザナギと離婚した後、「熊野フスミ」とお名前を変えられて大幡主と結婚し、アカル姫と豊玉彦(ヤタガラス=豊国主)をお産みになられています(系図3)。
古代日本では、周王朝系呉国・太白の流れを汲む正統な皇統(神武天皇など姫氏)を中心として日本を一つの国にまとめ上げるため、政略結婚が盛んに行われたようです。そして、その度に名前も変えられてきたとのことです。
アカル姫も「イワナガ媛」と名前を変え、この後、八幡古表神社(福岡県築上郡吉富町)に移られたそうです。
なお、アカル姫の誕生は西暦130年頃と考えられています。
境内入り口の鳥居と参道
Posted on 2016/07/10 Sun. 17:27 [edit]
category: 日記・古代史